ダメな大人の見本的な人生

88:人間はあきらめが肝心

 あの時〝三澄春登〟なんて呼ばなければ、実柚里は気付くことはなかった。
 ハルは隠していたのだろうか。しかし、思い返してみると、フルネームで呼ばれる事を本気で拒絶されたことはない気がする。
 ただ、もしハルが実柚里に知られたくなかったのなら、とんでもない事をしてしまった。

 美来は葛藤しながらスナックからの帰り道を歩く。しかしとうとう我慢できなくなって、少しだけならと検索エンジンに文字を入力する。

 〝三澄春登〟

 すぐにたくさんのページが引っかかる。
 〝三澄春登社長が退任した理由〟〝どうして三澄社長は人気絶頂の今、退任を選ぶのか〟〝表舞台から姿を消した三澄社長。きっかけは結婚?〟

 三澄春登という人間をよく知っている今、人が憶測で書いている記事に目を通そうとは思わなかった。

 検索をかけて出てきた画像に顔写真はほとんどない。どうやらなるべく顔を出さないでいたらしい。どれも隠し撮りされたみたいな不明確な写真。

 しかし一つだけはっきりと写っている写真があった。会社の紹介ページか何かで使われていたと思われるハルの写真は、相変わらずの無表情。しかし今よりもまだきりっとした顔をしている気がした。しかし、にこりとも笑っていないのは相変わらず。

 アパートまでの道を歩きながら、美来は出てきた動画を見てみる。動画はオープニングが流れて、〝覆面アルファ〟と表示される。まるで戦隊もののオープニングの様だ。

〈はい、今日は……〉

 挨拶もなしかよ。
 そう思うとハルらしくて思わずくすりと笑ってしまう。

 声を機械で絶妙に変えていて、やる気のない喋り方をしている。まるで誰かにやらされているみたいに。青い覆面をかぶっているが、ハルだと思ってみると紛れもなくハルだった。しかし、顔のほぼすべてが隠れているので、ハルだと知らなければおそらくわからないだろう。

 コメントには、〈今日もやる気ないけどそこが好〉〈覆面外すとイケメンに100円!〉〈やる気なさそうなのに生産性を語るってところがいいのよ〉という完全に洗脳された人たちもいれば〈応援しています!〉〈頑張ってください〉と温かいコメントもたくさん見られる。
 二年以上前の動画に〈まだ初代見てる人いる?〉というコメントが今月も付いていて、それにたくさんのいいねが押されている。

 愛されていたのだろうなと思った。

 わかりやすい説明。人を引き付ける能力。それをたった一本の動画で感じる。田上が尊敬すると言っている意味も分かる気がした。

 しっかりしているのに、やっぱりちゃらんぽらんで。ハルに感じていたわざと真ん中を外している様なチグハグな違和感の正体の輪郭を見ている気がする。

 ハルはまともな人間だったのか。そう思うとやっぱりなんだか、悲しくなる。
 しかしハルが元社長という立場だったとしても、やはりハルに対する気持ちが何一つ変わらず、相変わらず結婚なんてもってのほかだし、付き合うとかそういうのも一生ないなと思っている時点で、自分は案外マシな人間ではないのだろうと思って若干安心している。

 栄光を手放す理由というのは一体何なのか。
 しかし、偶然知っただけでそれを本人に根掘り葉掘り聞くというのはよろしい事ではないだろう。デリケートな問題だろうし。

〈つまり原始人みたいな生活を送ればいいって事です〉

 どうしてそんな話になった。
 少し考え事をしているうちにとんでもない所に話が飛んでいて。そうか、この画面の向こうの人はハルなのかと思うと、思わず笑みがこぼれた。

 知らないハルを見ている。しかしそう認識すればすぐに覗き見しているような気持ちになって、美来はアプリを閉じてホーム画面に戻した。

 今日はハルと鉢合わせたくない。おそらくまだ帰ってこないだろうが早めに眠ろうと、家に着いた美来はまるで証拠隠滅を試みる犯人になったような気持ちでバッグを放り投げてシャワーを浴びた。

 最後にゆっくり湯船に浸かったのって、いつだっけ。そんなことを考えながらさっさとシャワーを終えると、スキンケアを済ませて放り投げたバッグを拾い、リビングに歩く。
 そしてシャワーの前にタバコを一本吸っておけばよかったと思いながら、二秒ほどうな垂れて、しぶしぶ匂いが付かない様に髪にタオルを巻いてタバコを吸う。
 そして座りたくなった。

 衣織はいつも椅子をリビングに持ち込んで膝の上に座る様に誘導していたっけ。
 それを懐かしく感じて。しかしもう、戻らない。

 本当に戻らない事を知っていたなら、もう少し大切にしておけたのに。今更もう遅すぎるのだが。

 ハルにどんな顔をして会えばいいのだろう。ハルは怒っているだろうか。そういえばいつもより口数が少なかった気がする。実柚里や周りに隠していたのにお前のせいでバレただろと思っているだろうか。

 美来がタバコの火を消して伸びをしようとした事と、玄関の鍵穴に鍵を差し込もうとする金属がぶつかる音が聞こえたのは同じタイミングだった。

 美来は全速力で寝室に向かった。

 寝室にはベッドがひとつと、床にマットレスがひとつ。
 ハルの寝相が悪すぎて押しつぶされた美来は、わざわざ折り畳み式のマットレスを一つ購入したのだ。

 ハルの枕を踏みつけて、ベッドに飛び込んだ。どこかに頭をぶつけたが、それすらもどうでもいい。

 美来は耳を澄ませ、息を潜めて様子を伺う。もしかすると勘違いかもしれない。隣の部屋の人が帰ってきたとか。
 しかし、残念ながらそれは期待外れで、リビングのドアを開ける音がしてやはりハルが帰ってきたのだと思った。

 なんでこんなに帰ってくるのが早いんだ。せっかくならもっとゆっくりしてきたらいいじゃん。と完全に八つ当たりの文句を心の中で吐き捨てると、リビングのドアが閉まる音がした。

 てっきりリビングに入ってきたかと思ったが、浴室の方から音がするのでシャワーを浴びたらしい。

 美来はほっと息をつく。そして頭部がなんだか気持ち悪い事に気が付き、髪を乾かしていないことを思い出した。しかしドライヤーはリビングにある。

 ちなみに、リビングでテレビや動画を見ながら髪を乾かすことが美来の習慣で、同棲し始めた初日から「テレビの音が聞こえねーだろ。洗面所か寝室で乾かせ。マナー違反がよ」とガチギレするハルと「アンタがマナーの何を知ってるの? 人の習慣に口挟まないでよ」と引かない美来との間で未だ決着がついていない。二人の数ある喧嘩の最高頻度は間違いなくドライヤーだ。

 しかし、ドライヤーがどこにあったとしてもハルはシャワーがバカみたいに早いので、乾かしているうちに鉢合わせる事は確実だ。

 美来は上半身を起こして、なるべくタオルに髪の水をしみこませた。
 こればかりはもうどうにもならない。ハルが寝てからどうにかしよう。

 ハルがリビングのドアを開いて、美来は弾かれた様にベッドに横になる。

 すぐに寝室のドアが開いた。リビングの光が寝室に漏れている。
 美来は布団にくるまりながら、息を潜めた。

 ハルが座ったことによって、ベッドがきしむ。ハルの手がゆっくりと伸びて、濡れたままの美来の髪に触れた。  
 それからハルはふっと笑う。

「寝たふりすんな。バレてんだよ」

 呆れたように言うハルに、美来は溜息と同時に体の力を抜いた。
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