ダメな大人の見本的な人生

08:ろくなことにならない

「会いに来ちゃった」
「お引き取りください」

 条件反射くらいのスピードでぴしゃりという美来に、衣織はきょとんとした顔をする。
 もしかして、悲しんだ? と良心が顔を出してすぐ、衣織は笑顔を浮かべた。

 うわ、綺麗な顔……。と思っているあたりが救いようがない。

「家まで送る」
「いいです! すぐそこだから!」
「せっかく来たんだから送らせてよ。……悲しい気持ちになる」

 しょぼんとする衣織に、美来は思わずうっと言葉に詰まった。

 この表情は計算して作っている事は間違いない。
 イケメンに負けるな。
 頑張れよ、私。

 そう思うと同時に、確かにわざわざ会いに来てくれたのに、今すぐ帰れはさすがに酷いか。と思ったが、いやでも頼んだわけじゃないし、と良心と常識と本心が殴り合いの大喧嘩をおっぱじめていた。

 そうこうしているうちに、衣織は先を歩く。
 衣織が美来の家まで先に歩けば、それについて行く形で歩く以外どうしようもない。

 仕方ない……と思いながらなんだか丸く収まった様な気になって、美来は衣織の少し後ろを歩いた。

 そしてふと思う。この子の最終目的なんだろう。

 そもそも、顔が好きって何?

 付き合うとかその先の事は求めてないって事だよね。
 いやいや、その先は求めてない訳あるか。セックスは求めてるだろ。
 でも、将来とかそういうのは求めてないのか。

 美来は先を歩く衣織をちらりと盗み見た。

 正直、悪い気はしない。
 むしろ嬉しい。うん。正直に認めると嬉しい。こんな顔のいい子に求められて。

 ただ、だが、しかし。代償が大きすぎる。

 彼氏ができる事すら阻害する男だ。
 これから先の平穏な人生の為にも、これ以上懐かれるのは得策ではない。

 つまりきっぱりと縁を切る。という所に行きつくわけだが、家も知られていて、よく行く店も知っている。
 縁の切りようがないのではないかという考えにまとまろうとしていた。

 つまり先ほど出た結論に戻ってくる。
 〝これ以上距離を近づけない〟

「……っていうか!! なんで私の連絡先知ってるの!?」
「内緒ー」

 知り合いを探って聞いたのか。それとも、別のやり方か。
 しかし衣織の様子を見ているかぎり、これはどれだけ粘ったってひらひらとかわして言わないだろうと思っている所辺りが、既に彼の事を結構知っているのだと思う。

「美来さん、付き合ってよ」

 心臓が、あからさまに音を立てて跳ねた。

 〝付き合う〟という言葉の意味が分かっているのか。
 もしかすると遊び人のこの子は、言葉の意味を知らないのかもしれない。

 将来の事なんて考えていないはずだと決めつけていた。
 まさか考えていたなんて。

 嘘だろ。なんでそんなところだけ真面目なんだよ。

 どうやって断ろうか。という事に、頭をフル回転させる。
 どうやったらこの子は傷つかずに済むだろうか。そんな事ばかりを考えていた。

「講義のギリギリまで寝てたら眠れなくてさ。退屈してるんだ」

 心底。
 本当の本当に、心底安堵した。

 吐いた息で身体中の力が抜けきってしまいそうなくらい、安心する。

 よかった。そういう意味じゃなかった。
 そう思うのに、なんだか寂しいような気もしている自分に小一時間説教したい。

 10歳以上も年の離れた子と付き合うつもりなんて、全くないのだから。

「なにするの?」

 酔った状態でフル回転した頭は、安心したと同時にポンコツになった。

 ただ、動揺している事だけは知られたくなかった美来は、とりあえずつじつまが合う様に衣織に問いかける。

「うーん。美来さんと一緒だったらなんでもいいけど……」
「何もないなら、」
「じゃあ、ダーツとかビリヤード」

 大学生かよ。
 大学生だったわ。
 と心の中のツッコミに一瞬でツッコミを入れる。

 絶対に嫌だ。
 仕事して、スナックで酒飲んで、ダーツとビリヤード……? アクティブにも程がある。

「いや、私は帰る」
「苦手?」
「……別に苦手じゃないけど」
「あんまり行きたくなさそうだから」
「そりゃ、お酒飲んで後寝るだけだと思ってたのに、ダーツとビリヤードなんて、」
「下手で負けたくないから避けてるのかなって」

 〝下手で負けたくないから〟?
 大人を舐めるんじゃないよ。

 確かに大学の頃にやったきりで、その時も大して得意だった訳ではないけど、そんなド下手では断じてない。

 絶対に負かしてやる。という気持ちが八割。
 しかし衣織の言葉で火が付いたなんて思われたくなかった美来は、冷静を装っていた。

「……少しだけ行こうか」

 美来がそう言うと、衣織はまるでお出かけが決まった子どもの様な明るい笑顔を浮かべた。

「やった! じゃ、行こう」
「ちょっと……!」

 衣織は美来の手を掴むと、美来の家とは逆方向に走る。
 人がヒールを履いている事なんて気にしないで。

 だから、大学生がたまり場にしていそうな怪しげな薄暗い店に着くころには、足はくたくたで息が上がっていた。

 それに引き換え、衣織は涼しい顔をしている。

 これが喫煙者の三十路女と、18歳の若者の違いか。と愕然とした。

 汗がにじんで服にへばりつく感覚が気持ち悪い。しかし、身体中に残っているのが不快感だけではないのが不思議だった。

 大学を卒業してから、こんな場所に来る機会は全くなくなった。

 行ってもせいぜいカラオケくらいだ。それよりもずっと、カフェや居酒屋でおしゃべりすることが楽しくなった。

 中に入ると、みるからに大学生の子達が楽しそうに大口を開けて笑っている。
 いったいいつから、こんな風に笑えなくなったんだっけ、もしかして、いやもしかしなくても相当場違いなのでは。という不安感が心の内側を隙間なく埋め尽くそうとしている。

 店員とのやりとりを経た衣織について、ビリヤードの台の前に立った。
 隣では大学生が、一球誰かが打つ事に全身全霊で一喜一憂している。

 自分にもあんな頃が確実にあったのだが、遠い昔の話、そして今の自分とは何もかも違っていて、美来は信じられない気持ちでいた。

 もうこの長い棒の使い方どころか、ルールすらよく覚えていない。

 衣織が長い棒の先をきゅっきゅしている。超初心者だと思われることだけは回避すべく、美来は衣織をちらちらと見ながら真似をして先端をきゅっきゅした。

「じゃあ、あの……あれ。とりあえず、ルールの確認しとこうか」

 先端をきゅっきゅしながら、緑色の台の上に並んだ目がチカチカするくらい明るい球をこなれた感じで見ながら美来はそう言った。

「数入れた方が勝ち」

 端的にそういう衣織に、そんなルールだったかどうかも覚えていなかったが「おっけい」と調子のいい返事をした。

「先にいいよ」

 なにをどうしてそれからどうすればいいのかわからない美来は、〝譲ってあげる〟という態度を全開にして衣織にそう言った。

 疑問を素直に聞けないまま、交代でひたすら玉を狙う。
 衣織はどんどんと先に球を入れる。

「やるじゃん」

 どう考えても衣織の方が上手であることは目に見えているというのに、美来は必死に涼しい顔をして取り繕った。

 明らかな実力差があるなら手加減しろよ。と子ども相手にムキになっているどころか責任転嫁までし出す自分に、落ち着けと言い聞かせた。

 酒が欲しい。
 もう少しだけ素直になれそうな気がする。

 やがて美来の打った白い球が、いろいろな所にぶつかってポケットの中に入った。

「やった……」

 美来は上半身を起こして、思わず声を漏らした。

「やった入った!!」
「白い球は入れちゃダメだよ」

 衣織の言葉を聞いた瞬間に一瞬で身を潜めたのは、あふれんばかりの喜び。
 それから取り繕っていた建前だった。
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