ダメな大人の見本的な人生
89:呼応とか共鳴
美来は諦めてしぶしぶ身を起こした。
足元に座っているハルはいつも通りの様子に見える。
美来は気まずいままベッドに正座をして、ハルから視線を逸らした。
「換気扇つけっぱだし、部屋の中はまだタバコ臭いし」
ハルは美来が寝ていないと思った理由を淡々と述べていく。そこには明らかにバカじゃねーのか、という小馬鹿にした感じが含まれていたが、いろいろと負い目しか感じていない美来は言い返すことも出来ずにただ黙ってハルの話を聞いていた。
「あと、こんな髪びしょびしょのまま寝るヤツがどこにいんだよ。よくベッドに横になろうと思えるな。逆に尊敬するわ」
ハルはそういって美来の髪に触れた。
そこまで言われても、美来はハルとどんな距離感で接していいのかわからずに黙っていた。
いつもなら一言二言返ってくるのに今日に限っては黙っている美来に、ハルは気を抜いた様に笑う。
「風邪引くぞ。さっさと乾かせよ」
ハルにそう言われて、なんだか内臓的なものをぎゅっと掴まれた様な気になる。
「……ハル、なんか優しくて怖い」
「俺はいっつも超優しいだろーが。ほら、髪乾かせよ」
そう言われて美来はリビングに移動した。
ハルも一緒にやってきて、美来がソファーとローテーブルの間に入って髪を乾かしている間に、ハルは何をするでもなくソファに座っていた。
もしかして優しさを全力で演出しておいて後から突き落とすつもりでいるとか。お前のせいでバレただろうが!! みたいにブチギレてくるとか。しかし、怒られても仕方のない事をしたと言えばしたような気がするし。と美来はいろいろと考えを巡らせながら髪を乾かしていく。
動画も音楽もテレビもなく髪を乾かしているときは時間が永遠みたいに感じるのに、今日に限ってはすぐに乾いてしまった様な気がする。
「……ハル」
「あー」
「ごめんね。私のせいで」
もうほとんど乾いた髪に指を通しながら言う美来は、謝る態度としては正しくないことは理解していた。しかし同時に、二人の関係から言えばこれが正しい選択である事も、何となく察している。
「別にいいよ。実柚里が動画見せてきたときからいつかバレると思ってたし」
ハルは本当に気にしていない様子でいう。もう本当に気にしていないのだろう。きっとこれもハルの中では、〝考えても仕方のない事〟になるのだ。
ドライヤーを切る音が、静かな部屋でポツリと聞こえた。
「ハルって、まともな人間だったんだね」
ドライヤーを片付けながら美来はいう。
いつもならきっとハルは間髪入れずに〝俺はいっつもまともだろーが〟というのだ。しかし今日のハルは少し違った。
「俺が本当にまともだったら、自分で立ち上げた会社捨ててねーよ」
ドライヤーのコードをいつもよりゆっくりと片付ける。ハルの方を見られなかったから。
「頑張ったんだけどな。俺なりに」
まさかハルの口から〝頑張った〟なんて言葉を聞く日が来るなんて思わなかった。
きっとハルの本心だ。もう二度と聞く機会がないかもしれない、ハルの本心。
「お前にまでまともな人間だって思われるの、なんか辛いわ」
明らかな原因があって自分をダメなヤツだと思っているのに、周りから持ち上げられるのは確かにつらいだろう。
もしかするとハルも自分と同じ気持ちなのかもしれないと美来は思った。
ふらっと立ち寄るスナックにいつもいる、ダメな大人。同類。平日から酒を飲んで、つまらない人生の暇つぶしをする。〝こんな人間でも生きていけるんだから〟とふっと心を軽くするような存在、なのかもしれない。
リビングは広くて。ハルはきっと、不安だろうと思った。ハルはきっと、ずっとため込んでいたものをやっと吐き出そうとしている。ずっと心の中にあった澱の様なものを。
美来はハルの手を握って、それからキッチンに移動した。
「誰が今もまともな人間だなんて言ったの? 〝前までは〟まともな人間だったんだね! って意味なんだけど」
美来はそう言いながら冷蔵庫からビールのロング缶を二本取り出して、一本をハルに押し付ける様に渡した。
「……お前、明日仕事だろ?」
「大丈夫。慣れてるから」
美来はそういってビールを持っていない方の手でタバコとライターをひっつかむと、冷蔵庫を背もたれにして換気扇の下に座り込んだ。
「ここだったらお酒無くなったらすぐとれるし、タバコも吸える」
ハルは「発想が可愛くねーよな」と言いながら笑って、ビールを持っていない方の手で灰皿マグカップを手に取ると、美来の隣に腰を下ろした。
「ハルの喋ってる動画見たんだけど」
「見たのかよ」
美来はハルの口にタバコを突っ込んで、それから自分の口にも一本咥えた。そして特大サービスとして、最初にハルのタバコの火をつけてあげた。
それから、自分の咥えているタバコにも火をつける。
吐き出した煙を吸い込む換気扇を見ながら、美来は口を開いた。
「凄いなって思った。凄い数の人が見るのにあんなに堂々としゃべって、わかりやすくて」
「昔からバイトとかすぐクビになってさ。雇われるとか向いてないってわかってたから、ずっと自分のやりたい事だけをやりたいと思って会社を立ち上げた」
美来はタバコを口に咥えると、ビールのプルタブに指を引っ掛けた。タバコを指先で持ってから、ビールを一気に流し込む。
「だけど、会社が大きくなればなるほどやりたくない事も山ほどでてきた。……連日の会食に、下からの不満に。最初は狭いアパートで仲間とギューギュー詰めで、毎日20時間くらい働いて。それでも仕事を楽しいって思ってた。それなのに、いつの間にかやってもやっても終わらないって、自分の時間がないって、不満に思ってた。俺のやりたかったことって、こんな事だったんだっけって思うとどうしても嫌になって、立ち上げメンバーの田上に任せて会社を辞めた」
美来はタバコの火を消してもまだ換気扇を眺めていた。
どんな言葉をかけていいのか、見当もつかなかった。会社を立ち上げようと思ったことなんてない美来には、想像すらできない事だったからだ。しかし下手な相槌も共感も、きっとハルには必要ないのだろうという事も、美来は何となくわかっていた。
「金持ってれば幸せになれるって思ってたけど、思い違いだったわ。あの時、金は持ってたけど、幸せなんてヤツとは程遠かった。金と幸せってのは比例しないって学んだわ」
「何の未練もないの?」
「金に関してはな」
〝社長〟と呼ばれた時とは全く違う生活をしている。金持ちの世界を経験しても、金を持っていない生活を選ぶのか。
「ほかの事はもっと俺にできる事があったかもしれないって思うけど、今更考えたってな。俺は俺なりにやったって、思うしかねーよな」
今のハルしか知らないからか、〝社長〟と呼ばれているハルよりも、今のハルがハルらしいような気がしていた。
「人生前半頑張ったから、後半死んでても罰は当たらねーだろ」
ハルを養える程の収入はない。同棲するという事はハルは働かなければいけないという事だ。もしかするとそれを自分が無理やりさせてしまっているのだろうか。そんなことを考えた。
「お前は別に悪くないからな」
ハルははっきりとそう言い切る。
「お前が衣織のために俺と付き合ってるみたいに、俺も実柚里のためにお前と付き合ってるんだから」
その言葉に胸がズキっと痛むのは、恋愛感情ではない。あえて言うなら〝情〟というものだ。一緒にいるからこそ生まれてくる、絆とかそんな不明確なもの。
わかっているのになんだか、直接的にそう言われると悲しい気持ちになる。被害妄想だと思う。
だけど自分が必要ないと言われているみたいで。悲しくなってほんの少し涙がにじむから、美来はハルのいない方の壁を見つめた。多分、酒に酔っている事も原因の一つだ。
「どんな顔だよ、それ。傷つけようと思って言った訳じゃないんだけど」
どうやらハルにはしっかりと見られていたようだ。
「わかってるし。そんなの」
「お前が俺を付き合わせてるって思ってるんだろうなとか、自分のせいでバレたと思ってるって、思っただけで……」
そこまで言ってハルは、自分の肩の方へと美来の頭を引き寄せた。
温かい。好きな人ではなくても、人間の体温は温かい。
「働かなくていいよって言ってあげられない自分が、ちょっと嫌だなって思う」
「俺ヒモじゃん」
そう言うとハルは笑った。
「でも、ありがとな」
こんなに素直なハルを見るのは初めてだ。
「惚れそうだわー」
「それは迷惑です」
美来がはっきりと言い切るとハルはまた笑った。どうせこの男が自分に惚れる事はない。お互いに。それは唯一はっきりとした事実だ。
ハルは美来の顔を覗き込むようにして唇を重ねた。
人間同士の感情の呼応は、〝好きな人〟なんて生ぬるくて不確実で側にもいないあやふやなモノは、燃やしてしまう。
足元に座っているハルはいつも通りの様子に見える。
美来は気まずいままベッドに正座をして、ハルから視線を逸らした。
「換気扇つけっぱだし、部屋の中はまだタバコ臭いし」
ハルは美来が寝ていないと思った理由を淡々と述べていく。そこには明らかにバカじゃねーのか、という小馬鹿にした感じが含まれていたが、いろいろと負い目しか感じていない美来は言い返すことも出来ずにただ黙ってハルの話を聞いていた。
「あと、こんな髪びしょびしょのまま寝るヤツがどこにいんだよ。よくベッドに横になろうと思えるな。逆に尊敬するわ」
ハルはそういって美来の髪に触れた。
そこまで言われても、美来はハルとどんな距離感で接していいのかわからずに黙っていた。
いつもなら一言二言返ってくるのに今日に限っては黙っている美来に、ハルは気を抜いた様に笑う。
「風邪引くぞ。さっさと乾かせよ」
ハルにそう言われて、なんだか内臓的なものをぎゅっと掴まれた様な気になる。
「……ハル、なんか優しくて怖い」
「俺はいっつも超優しいだろーが。ほら、髪乾かせよ」
そう言われて美来はリビングに移動した。
ハルも一緒にやってきて、美来がソファーとローテーブルの間に入って髪を乾かしている間に、ハルは何をするでもなくソファに座っていた。
もしかして優しさを全力で演出しておいて後から突き落とすつもりでいるとか。お前のせいでバレただろうが!! みたいにブチギレてくるとか。しかし、怒られても仕方のない事をしたと言えばしたような気がするし。と美来はいろいろと考えを巡らせながら髪を乾かしていく。
動画も音楽もテレビもなく髪を乾かしているときは時間が永遠みたいに感じるのに、今日に限ってはすぐに乾いてしまった様な気がする。
「……ハル」
「あー」
「ごめんね。私のせいで」
もうほとんど乾いた髪に指を通しながら言う美来は、謝る態度としては正しくないことは理解していた。しかし同時に、二人の関係から言えばこれが正しい選択である事も、何となく察している。
「別にいいよ。実柚里が動画見せてきたときからいつかバレると思ってたし」
ハルは本当に気にしていない様子でいう。もう本当に気にしていないのだろう。きっとこれもハルの中では、〝考えても仕方のない事〟になるのだ。
ドライヤーを切る音が、静かな部屋でポツリと聞こえた。
「ハルって、まともな人間だったんだね」
ドライヤーを片付けながら美来はいう。
いつもならきっとハルは間髪入れずに〝俺はいっつもまともだろーが〟というのだ。しかし今日のハルは少し違った。
「俺が本当にまともだったら、自分で立ち上げた会社捨ててねーよ」
ドライヤーのコードをいつもよりゆっくりと片付ける。ハルの方を見られなかったから。
「頑張ったんだけどな。俺なりに」
まさかハルの口から〝頑張った〟なんて言葉を聞く日が来るなんて思わなかった。
きっとハルの本心だ。もう二度と聞く機会がないかもしれない、ハルの本心。
「お前にまでまともな人間だって思われるの、なんか辛いわ」
明らかな原因があって自分をダメなヤツだと思っているのに、周りから持ち上げられるのは確かにつらいだろう。
もしかするとハルも自分と同じ気持ちなのかもしれないと美来は思った。
ふらっと立ち寄るスナックにいつもいる、ダメな大人。同類。平日から酒を飲んで、つまらない人生の暇つぶしをする。〝こんな人間でも生きていけるんだから〟とふっと心を軽くするような存在、なのかもしれない。
リビングは広くて。ハルはきっと、不安だろうと思った。ハルはきっと、ずっとため込んでいたものをやっと吐き出そうとしている。ずっと心の中にあった澱の様なものを。
美来はハルの手を握って、それからキッチンに移動した。
「誰が今もまともな人間だなんて言ったの? 〝前までは〟まともな人間だったんだね! って意味なんだけど」
美来はそう言いながら冷蔵庫からビールのロング缶を二本取り出して、一本をハルに押し付ける様に渡した。
「……お前、明日仕事だろ?」
「大丈夫。慣れてるから」
美来はそういってビールを持っていない方の手でタバコとライターをひっつかむと、冷蔵庫を背もたれにして換気扇の下に座り込んだ。
「ここだったらお酒無くなったらすぐとれるし、タバコも吸える」
ハルは「発想が可愛くねーよな」と言いながら笑って、ビールを持っていない方の手で灰皿マグカップを手に取ると、美来の隣に腰を下ろした。
「ハルの喋ってる動画見たんだけど」
「見たのかよ」
美来はハルの口にタバコを突っ込んで、それから自分の口にも一本咥えた。そして特大サービスとして、最初にハルのタバコの火をつけてあげた。
それから、自分の咥えているタバコにも火をつける。
吐き出した煙を吸い込む換気扇を見ながら、美来は口を開いた。
「凄いなって思った。凄い数の人が見るのにあんなに堂々としゃべって、わかりやすくて」
「昔からバイトとかすぐクビになってさ。雇われるとか向いてないってわかってたから、ずっと自分のやりたい事だけをやりたいと思って会社を立ち上げた」
美来はタバコを口に咥えると、ビールのプルタブに指を引っ掛けた。タバコを指先で持ってから、ビールを一気に流し込む。
「だけど、会社が大きくなればなるほどやりたくない事も山ほどでてきた。……連日の会食に、下からの不満に。最初は狭いアパートで仲間とギューギュー詰めで、毎日20時間くらい働いて。それでも仕事を楽しいって思ってた。それなのに、いつの間にかやってもやっても終わらないって、自分の時間がないって、不満に思ってた。俺のやりたかったことって、こんな事だったんだっけって思うとどうしても嫌になって、立ち上げメンバーの田上に任せて会社を辞めた」
美来はタバコの火を消してもまだ換気扇を眺めていた。
どんな言葉をかけていいのか、見当もつかなかった。会社を立ち上げようと思ったことなんてない美来には、想像すらできない事だったからだ。しかし下手な相槌も共感も、きっとハルには必要ないのだろうという事も、美来は何となくわかっていた。
「金持ってれば幸せになれるって思ってたけど、思い違いだったわ。あの時、金は持ってたけど、幸せなんてヤツとは程遠かった。金と幸せってのは比例しないって学んだわ」
「何の未練もないの?」
「金に関してはな」
〝社長〟と呼ばれた時とは全く違う生活をしている。金持ちの世界を経験しても、金を持っていない生活を選ぶのか。
「ほかの事はもっと俺にできる事があったかもしれないって思うけど、今更考えたってな。俺は俺なりにやったって、思うしかねーよな」
今のハルしか知らないからか、〝社長〟と呼ばれているハルよりも、今のハルがハルらしいような気がしていた。
「人生前半頑張ったから、後半死んでても罰は当たらねーだろ」
ハルを養える程の収入はない。同棲するという事はハルは働かなければいけないという事だ。もしかするとそれを自分が無理やりさせてしまっているのだろうか。そんなことを考えた。
「お前は別に悪くないからな」
ハルははっきりとそう言い切る。
「お前が衣織のために俺と付き合ってるみたいに、俺も実柚里のためにお前と付き合ってるんだから」
その言葉に胸がズキっと痛むのは、恋愛感情ではない。あえて言うなら〝情〟というものだ。一緒にいるからこそ生まれてくる、絆とかそんな不明確なもの。
わかっているのになんだか、直接的にそう言われると悲しい気持ちになる。被害妄想だと思う。
だけど自分が必要ないと言われているみたいで。悲しくなってほんの少し涙がにじむから、美来はハルのいない方の壁を見つめた。多分、酒に酔っている事も原因の一つだ。
「どんな顔だよ、それ。傷つけようと思って言った訳じゃないんだけど」
どうやらハルにはしっかりと見られていたようだ。
「わかってるし。そんなの」
「お前が俺を付き合わせてるって思ってるんだろうなとか、自分のせいでバレたと思ってるって、思っただけで……」
そこまで言ってハルは、自分の肩の方へと美来の頭を引き寄せた。
温かい。好きな人ではなくても、人間の体温は温かい。
「働かなくていいよって言ってあげられない自分が、ちょっと嫌だなって思う」
「俺ヒモじゃん」
そう言うとハルは笑った。
「でも、ありがとな」
こんなに素直なハルを見るのは初めてだ。
「惚れそうだわー」
「それは迷惑です」
美来がはっきりと言い切るとハルはまた笑った。どうせこの男が自分に惚れる事はない。お互いに。それは唯一はっきりとした事実だ。
ハルは美来の顔を覗き込むようにして唇を重ねた。
人間同士の感情の呼応は、〝好きな人〟なんて生ぬるくて不確実で側にもいないあやふやなモノは、燃やしてしまう。