ダメな大人の見本的な人生
90:キャラ変更
けたたましいスマートフォンのアラームの音で目を覚ました。時間は朝の七時前。
いつも通りの朝だ。マットレスに死体の様に転がっているハルをうらやましいと恨みを半分ずつの気持ちで跨いで、多少手や足を踏みつけても気にせずにハルのうめき声を背にリビングに移動する。どうせ、慣れたいつも通りの朝に決まっている。
美来はうつ伏せから、今しがた蘇生したゾンビの様に上半身を起こして、しばらく俯いていた。それからベッドに手をついてまたうつ伏せに戻るかと思いきや、大きく伸びを一つしてから、体のだるさでもう一度ベッドに沈む。昨日の夜のロング缶が余計だったことは分かっている。しかし、ハルに付き合おうと思ったのだ。だから後悔はしていない。あれは必要な選択だった。
しかしやっぱり、ちょっと後悔するくらいには体調が悪い。
美来はため息を吐き捨ててから決死の思い出もう一度起き上がり、天井からハルの方へと視線を移した。
この男は本当にいつもいつも好きなだけ眠っていられて羨ましい。そう思ったはずだったのに、美来の思考はピタリと動きを止めた。
「ハルがいない……」
思わずそう呟いて、美来は上半身を起こす。
ハルが使っているマットレスは、しっかりとベッドメイキングがされていて、しわが伸びていた。ハルは普段ベッドメイキングなんて丁寧な事は絶対にやらない。
トイレだろうか。いやそれなら足音の一つでも聞こえそうなものだが、耳を澄ませてみてもハルの気配を感じない。
何もかもイヤになって、家を飛び出したとか。
最後の最後くらいは、布団を綺麗にしようと思ったとか。
考え始めるときりがない美来は起床時のだるさも眠気も全て忘れてハルが綺麗にしわを伸ばしたシーツを踏みつけてベッドから飛び出した。リビングにはいない。廊下にも、トイレにもいない。そして浴室にもいなかった。
スマホ。ハルのスマホは……。パニックになりながら視線を彷徨わせていると、玄関のドアがガチャリと開いた。
「おはよー」
ハルは間延びした声で言いながら部屋の中に入ってくる。ハルの額には汗がにじんでいる。スポーツマンの様な、朝ひとっ走り行ってきました。という様子で。
「……なにしてるの?」
「なにって、歩いてきただけだけど」
歩いてきた? 誰がどうしてどんな目的で?
早起きしてウォーキングするなんて朝活の代名詞みたいな行動が世界で一番似合わなさそうなギャンブル癖持ちの男が? いやいや、この男は元々大きな会社を立ち上げた社長で。
「邪魔」
混乱する美来の隣を通り過ぎて、浴室に入っていった。
目の前で閉まったドアに、ほんの少し冷静さを取り戻す。
てっきりもう心が折れてしまったのかと思った。それなのに朝からいい汗かいたみたいな顔をして戻ってきた。
そうか。そうだ。ハルというのはそういうヤツだ。考えても仕方がない事は考えない。ハルは今まできっと長い間会社の事で悩んできたが、それはもうハルの中では〝さすがに時々思い出すけど、考えても仕方がない事〟になるのだと思う。
昨日は偶然酒と田上といろいろな要因が重なって、ちょっと感傷的になっただけ。ハルにとっては、日常の一ページに過ぎない。
急に朝から歩き出した理由は知らないが、まあ、きっと、そういう事なのだろう。
テキトーな所で着地して納得した美来は、途端に馬鹿らしくなる。そしてもともとギリギリに起きているのにさらにギリギリになった事によって、焦って準備を始めた。
美来がリビングで光のスピードで化粧をしていると、ハルがパンツ一枚でシャワーから戻ってきた。
「あのさ~これから仕事なのに、朝からアンタのパンツ見せられる私の身にもなってよ」
「別によくね? もう中身見てんだし」
〝中身〟とか言うなと思ったが、ハル行方不明事件のおかげで時間が押している美来は、これ以上ハルに構っている暇はないと判断し、口をきかないという決断を下した。
ハルは二度寝をすることもなくパソコンの起動ボタンを押してからソファに座った。
スマホの画面を見てみると、いつものいかにもギャンブルしてそうな緑とか赤とか青とかの番号が出ている画面ではなくて、ネットニュースを見ていた。
ハルが、ネットニュースを見ているなんて、幻覚だろうか。そう思ったが、本当に時間がギリギリになった美来は、手早く準備をしてさっさと家を出た。
それにしても急に別人みたいに変わったな。そして何より、よく冬の朝のシャワーから上がったばかりでパンツ一枚でいられるな。小走りで朝の道を駆け抜けながら、今朝の事を考えていると、案外すぐに会社に到着した。
総務部の奥さんの尻に敷かれていてお小遣いは二万円と噂の上司が困った笑顔を作って、「あのー」と控えめに話しかけてきた。
「4月から受付じゃなくて別の仕事をしてほしいんですけど……」
それはずっと、恐れていたことだった。
「……わかりました」
笑顔で、なんの気もない様子で答える。
もう必要ないよ、今までお疲れ様。遠回しにそう言われているみたいな気がして。
考えても仕方のない事ばかりが、頭の中を回る。衣織の事をこれほど長い間考えないでいたのは初めてかもしれない。
今まで仕事をしてきた中で、ダントツで一番に体感時間が短い仕事だった。
ハルはもしかすると飲みに出ているかもしれない。
「ただいま」
そう思いながらドアを開ける。リビングの電気はついている。靴もある。という事はハルは家にいるという事だ。
「おかえり」
美来がリビングに入ると、ハルはいつも通りの返事をした。
「飯どーする?」
「そんな事よりさ~」
「そんな事じゃねーわ。腹減ってんだよ」
美来はバッグを床に放り投げながら溜息をついた。
「四月から受付の仕事から変わってほしいって言われたの」
「へー」
美来がそう言うとハルは聞くモードに入ったようで黙っていた。
つまり、美来はハルからの反応を待っていて、ハルは美来の言葉の続きを待っていた。
「え、だから?」
「……だから? って……」
ここまで言ってもわからないの。という気持ちが出てきたが、察してはわがままだと思った美来は口ごもりながらも、もう一度口を開いた。
「若い子はたくさんいるから、もうお前はいらないって事じゃん」
自分の内側にあったものが言葉として外に出て、耳からもう一度内側に入って攻撃してくる。
なんだか言っていて虚しくなるから、本当の事を言うなら察してほしかった。
しかしハルは「あー……あ?」と言って納得した様子を見せつつもすぐに心の中で否定に入ったらしい。
「……いや、考えすぎじゃね?」
「絶対違うよ。そういう事なんだって」
「お前、絶対受付の仕事したいってこだわりとかあんの?」
「……いやないけど、別に」
「ないなら受付から外された理由とか考えても仕方なくね。何の仕事だっていいだろ。……お前が言うみたいに、もし若い子たくさんいるからお前はいらないって理由だったとしても、受付嬢なんて派遣で雇っている所も多いんだからさ。正社員で、受付が出来なくなっても同じ会社の他の所で働けるって運いいじゃん」
確かにそう考えればそうなのかもしれないと納得してしまっている。
しかしこのそうだけどそうじゃない感をハルに説明しようとしても残念ながらそこまでの語彙力は持ち合わせていなく。同時に、確かにという納得の方が多かった。
「で、何食う? 米は炊いといたけど」
「……簡単に残り物で野菜炒め」
「なんかあったっけ」
ハルはそう言うと、もう美来を放置してキッチンに移動した。
この感情を何かに例えるなら、究極に喉が渇いている状態で、ビールが入る予定だったはずのグラスに一切の悪気がなく良かれと思って水を注がれた感じだ。
いつも通りの朝だ。マットレスに死体の様に転がっているハルをうらやましいと恨みを半分ずつの気持ちで跨いで、多少手や足を踏みつけても気にせずにハルのうめき声を背にリビングに移動する。どうせ、慣れたいつも通りの朝に決まっている。
美来はうつ伏せから、今しがた蘇生したゾンビの様に上半身を起こして、しばらく俯いていた。それからベッドに手をついてまたうつ伏せに戻るかと思いきや、大きく伸びを一つしてから、体のだるさでもう一度ベッドに沈む。昨日の夜のロング缶が余計だったことは分かっている。しかし、ハルに付き合おうと思ったのだ。だから後悔はしていない。あれは必要な選択だった。
しかしやっぱり、ちょっと後悔するくらいには体調が悪い。
美来はため息を吐き捨ててから決死の思い出もう一度起き上がり、天井からハルの方へと視線を移した。
この男は本当にいつもいつも好きなだけ眠っていられて羨ましい。そう思ったはずだったのに、美来の思考はピタリと動きを止めた。
「ハルがいない……」
思わずそう呟いて、美来は上半身を起こす。
ハルが使っているマットレスは、しっかりとベッドメイキングがされていて、しわが伸びていた。ハルは普段ベッドメイキングなんて丁寧な事は絶対にやらない。
トイレだろうか。いやそれなら足音の一つでも聞こえそうなものだが、耳を澄ませてみてもハルの気配を感じない。
何もかもイヤになって、家を飛び出したとか。
最後の最後くらいは、布団を綺麗にしようと思ったとか。
考え始めるときりがない美来は起床時のだるさも眠気も全て忘れてハルが綺麗にしわを伸ばしたシーツを踏みつけてベッドから飛び出した。リビングにはいない。廊下にも、トイレにもいない。そして浴室にもいなかった。
スマホ。ハルのスマホは……。パニックになりながら視線を彷徨わせていると、玄関のドアがガチャリと開いた。
「おはよー」
ハルは間延びした声で言いながら部屋の中に入ってくる。ハルの額には汗がにじんでいる。スポーツマンの様な、朝ひとっ走り行ってきました。という様子で。
「……なにしてるの?」
「なにって、歩いてきただけだけど」
歩いてきた? 誰がどうしてどんな目的で?
早起きしてウォーキングするなんて朝活の代名詞みたいな行動が世界で一番似合わなさそうなギャンブル癖持ちの男が? いやいや、この男は元々大きな会社を立ち上げた社長で。
「邪魔」
混乱する美来の隣を通り過ぎて、浴室に入っていった。
目の前で閉まったドアに、ほんの少し冷静さを取り戻す。
てっきりもう心が折れてしまったのかと思った。それなのに朝からいい汗かいたみたいな顔をして戻ってきた。
そうか。そうだ。ハルというのはそういうヤツだ。考えても仕方がない事は考えない。ハルは今まできっと長い間会社の事で悩んできたが、それはもうハルの中では〝さすがに時々思い出すけど、考えても仕方がない事〟になるのだと思う。
昨日は偶然酒と田上といろいろな要因が重なって、ちょっと感傷的になっただけ。ハルにとっては、日常の一ページに過ぎない。
急に朝から歩き出した理由は知らないが、まあ、きっと、そういう事なのだろう。
テキトーな所で着地して納得した美来は、途端に馬鹿らしくなる。そしてもともとギリギリに起きているのにさらにギリギリになった事によって、焦って準備を始めた。
美来がリビングで光のスピードで化粧をしていると、ハルがパンツ一枚でシャワーから戻ってきた。
「あのさ~これから仕事なのに、朝からアンタのパンツ見せられる私の身にもなってよ」
「別によくね? もう中身見てんだし」
〝中身〟とか言うなと思ったが、ハル行方不明事件のおかげで時間が押している美来は、これ以上ハルに構っている暇はないと判断し、口をきかないという決断を下した。
ハルは二度寝をすることもなくパソコンの起動ボタンを押してからソファに座った。
スマホの画面を見てみると、いつものいかにもギャンブルしてそうな緑とか赤とか青とかの番号が出ている画面ではなくて、ネットニュースを見ていた。
ハルが、ネットニュースを見ているなんて、幻覚だろうか。そう思ったが、本当に時間がギリギリになった美来は、手早く準備をしてさっさと家を出た。
それにしても急に別人みたいに変わったな。そして何より、よく冬の朝のシャワーから上がったばかりでパンツ一枚でいられるな。小走りで朝の道を駆け抜けながら、今朝の事を考えていると、案外すぐに会社に到着した。
総務部の奥さんの尻に敷かれていてお小遣いは二万円と噂の上司が困った笑顔を作って、「あのー」と控えめに話しかけてきた。
「4月から受付じゃなくて別の仕事をしてほしいんですけど……」
それはずっと、恐れていたことだった。
「……わかりました」
笑顔で、なんの気もない様子で答える。
もう必要ないよ、今までお疲れ様。遠回しにそう言われているみたいな気がして。
考えても仕方のない事ばかりが、頭の中を回る。衣織の事をこれほど長い間考えないでいたのは初めてかもしれない。
今まで仕事をしてきた中で、ダントツで一番に体感時間が短い仕事だった。
ハルはもしかすると飲みに出ているかもしれない。
「ただいま」
そう思いながらドアを開ける。リビングの電気はついている。靴もある。という事はハルは家にいるという事だ。
「おかえり」
美来がリビングに入ると、ハルはいつも通りの返事をした。
「飯どーする?」
「そんな事よりさ~」
「そんな事じゃねーわ。腹減ってんだよ」
美来はバッグを床に放り投げながら溜息をついた。
「四月から受付の仕事から変わってほしいって言われたの」
「へー」
美来がそう言うとハルは聞くモードに入ったようで黙っていた。
つまり、美来はハルからの反応を待っていて、ハルは美来の言葉の続きを待っていた。
「え、だから?」
「……だから? って……」
ここまで言ってもわからないの。という気持ちが出てきたが、察してはわがままだと思った美来は口ごもりながらも、もう一度口を開いた。
「若い子はたくさんいるから、もうお前はいらないって事じゃん」
自分の内側にあったものが言葉として外に出て、耳からもう一度内側に入って攻撃してくる。
なんだか言っていて虚しくなるから、本当の事を言うなら察してほしかった。
しかしハルは「あー……あ?」と言って納得した様子を見せつつもすぐに心の中で否定に入ったらしい。
「……いや、考えすぎじゃね?」
「絶対違うよ。そういう事なんだって」
「お前、絶対受付の仕事したいってこだわりとかあんの?」
「……いやないけど、別に」
「ないなら受付から外された理由とか考えても仕方なくね。何の仕事だっていいだろ。……お前が言うみたいに、もし若い子たくさんいるからお前はいらないって理由だったとしても、受付嬢なんて派遣で雇っている所も多いんだからさ。正社員で、受付が出来なくなっても同じ会社の他の所で働けるって運いいじゃん」
確かにそう考えればそうなのかもしれないと納得してしまっている。
しかしこのそうだけどそうじゃない感をハルに説明しようとしても残念ながらそこまでの語彙力は持ち合わせていなく。同時に、確かにという納得の方が多かった。
「で、何食う? 米は炊いといたけど」
「……簡単に残り物で野菜炒め」
「なんかあったっけ」
ハルはそう言うと、もう美来を放置してキッチンに移動した。
この感情を何かに例えるなら、究極に喉が渇いている状態で、ビールが入る予定だったはずのグラスに一切の悪気がなく良かれと思って水を注がれた感じだ。