ダメな大人の見本的な人生
92:今までの無意味
スマートフォンから短い通知が鳴って、美来は一覧から久しぶりに先頭に来た実柚里のトーク画面を開いた。
【今電話いい?】
つまり〝今、ハルさんとは一緒にいないよね〟という事だろう。だとしたら美来は、すでに実柚里の話の内容を察していた。
実柚里は律儀だ。きっと昨日感情的になった事を謝ろうと思っているに違いない。
【いいよ】
美来がそれだけのメッセージを送ると、すぐに既読が付いた。実柚里は画面を開いたまま待っていたのだろう。
ハルは出かけて行った。どこに行ったのかは知らないが、今日は夜ご飯はいらないらしい。本当にどこまでも彼氏彼女っぽくないなと思っていると、実柚里からの電話がかかってきた。
「もしもし」
〈もしもし、美来さん〉
機械ごしに聞く実柚里の声は、いつもよりずっと落ち着いている。
〈昨日はごめんね〉
実柚里は申し訳なさそうにそういう。それは、まだ実柚里が衣織の事を好きだった時代に感情的に美来を罵って謝ったスナックでの出来事を思い出させた。
「気にしてないよ。実柚里ちゃんの言いたい事もわかるし」
わかっている。実柚里がハルの事を心から心配しているという事も、大切だという事も。それから〝同棲する〟という二人で下したはずの決断が、ハルにさらに大きな決断をさせてしまっている事も、全部わかっている。
〈美来さん、本当はね〉
「うん」
〈衣織と付き合ってるって、嘘なんだ〉
「……え?」
そういう実柚里に心臓を掴まれた様な気持ちになった。
だって二人は普通にキスをしていたじゃないか。いがみ合っているばかりの二人が、付き合っていないのにそんなことをするはずがなくて。
混乱して言葉一つでない美来をよそに、実柚里は口を開く。
〈だって美来さんとハルさんが付き合うはずないんだもん。私たちに諦めさせるためにやってるって、すぐわかった。だから、じゃあこっちも付き合うフリしたら二人ともさっさと別れるんじゃないかって思って〉
「いや、でも、キスしてたじゃん。……してたよね……?」
〈キスくらいするよ。それでハルさんが、美来さんと別れるなら〉
キスくらい、するのか。
それはきっとハルも驚きの事実だろう。まさかいがみ合っているはずの二人が、そんなことをするなんて。
もしかすると衣織の昨日の態度は、もう自分の事なんて眼中に無くなってしまった証拠なのかもしれないが。
〈でもハルさんも美来さんもここまでするって思わなかったでしょ? 二人の中では私たちは、大人として守ってあげないといけない子どもだもんね〉
実柚里の声色は凄く寂しそうで。なんだか悲しい響きをしていた。
子どもだと思っていた。少しも疑わずに。
でも子どもの方が本当に大切なことを知っているのかもしれないと、何度も思ったことを思い出したみたいに、また思う。
ただ好きだとか、誰かに夢中なるだけで、たったそれだけで、なんでもできるような気がしてしまう。衣織や実柚里と同じくらいの年齢の時には、今の二人と同じように根拠のない自信があって。いつの間にか忘れてしまった。
〈……美来さん、私ね〉
「うん」
〈恋愛が第一みたいな人の気持ちって、全然わからなかった。でも今なら、そんな女の子の気持ちがよくわかる。自分が自分じゃないみたいだもん〉
それはなんだか学生時代に、友達の相談に乗っているみたいで。
〈ハルさんと同じくらいの年齢だったらよかったって思うよ〉
『だけど今ね、本気で年齢がもっと〝大人〟だったらよかったのに、って思ってる』
衣織はそう言っていた。
〈そうしたらどんな形でも、ハルさんの側に居られたのに〉
『もしそうだったら、美来さんはきっと俺と一緒にいてくれるのにって』
その後に衣織が言った言葉もまた、実柚里と似たようなもので。
〝恋〟なんて呼べる甘酸っぱいものは、もう関わることはないと思っていた。それよりももっと安定して根を張るような。これからはそんな恋愛をするのだろうと思っていたのに。
衣織と実柚里の真っ直ぐ過ぎる想いが痛いくらい胸を突きさして、息をする事さえ苦しい。
どうして人生というのは時々、残酷な事が起こるのだろう。
神様は乗り越えられない試練は与えないと言うが、それはきっと嘘だ。
試練を前にどうするかわからずにあたふたとしている間にその環境に慣れて、それから時間だけが流れて、何となく解決した気になっているだけ。
〈諦めないから。私達〉
最初からこんな同棲は、意味がなかったのだろう。
子どもたちの凄さを大人が思い知っただけで、二人の団結力を高めただけなのかもしれない。
どんな言葉にしようと思った。この期に及んで〝本当に好きで付き合ってるんだよ〟というのは、今更だろうか。きっと鼻で笑われるだけ。ハルには取り付く島もないとわかっているから昨日も今日も自分に言ってくるのだろうという事を美来は理解していた。
ハルならきっとテキトーにうまくやって電話を切るだろう。残念ながらそれほど口達者ではない。ただもしもハルの様にテキトーにあしらったとして。
この子たちが諦めるのは一体いつになるだろう。一体いつまで、この無意味な同棲を続ければいい。
もう、お手上げだ。
「……私たちが本気で付き合ってるとは思わなかった?」
美来がそう言うと、電話の向こうで実柚里が短く笑った。
〈じゃあ美来さん達は、私と衣織が本気で付き合ってると思った?〉
「思ってなかったよ。キスしてる動画みるまではね」
〈でしょ? 私も衣織も、同じだよ。だってハルさんと美来さんじゃ絶対に性格合わないって私たちは最初から思ってたし。本気で引き離しそうだったから、同棲くらいしそうだねって話してたし〉
最初から何もかもバレていたのか。
やっぱりこの付き合っているという事実も、同棲も、無意味だったのか。
だったらもう遠回しなことはやめて、直接向き合って話をするしかないという事になるのだろう。
〈ねー、美来さん〉
「なに?」
〈迷惑だったのかな? ハルさんにとって、私って〉
気丈にふるまっても隠し切れない悲しさが実柚里の言葉の響きにはあって。
ハルはね、本当は実柚里ちゃんの事が大好きなんだよ。そんな風にあっさり言えたら、どれだけ気が楽か。
しかし美来は何となく、実柚里はハルの気持ちを察しているのではないかと思った。
「それは私に聞かなくてもさ、ハルの事をよくわかってる実柚里ちゃんが一番知ってるんじゃないの?」
そう言うと実柚里は電話越しで笑った。
〈だよね。いい感じだと思ったんだよ。なんとなくね。でもダメだった。ハルさんガード固いんだもん〉
実柚里は友達に愚痴を言うみたいに言う。実柚里は本当にハルの事をよく見ていると思う。
きっとハルは自分の気持ちを出さない様にと実柚里と関わって、それでもきっと実柚里の事が好きだから無意識に出てしまった何かを、実柚里がほんの少しだけすくい取ってしまったのだろう。
実柚里がすくい取った何かはきっと、言葉にはならないもので。自分が衣織に感じた様な、言葉にはならない安心感だとか、息の合った調子だとか。そんなものなのだと思う。
〈私さ、なんか辛いよ〉
「私とハルが付き合ってること?」
〈それもそうだけど。……衣織、意外といいヤツだからさ、ああ見えて〉
実柚里がまさか衣織の事を褒めるとは思ってなかった。
美来の頭の中には、昨日の目も合わせずに実柚里の名前を呼ぶ衣織が浮かんだ。
「……ねー実柚里ちゃん」
〈なに?〉
「衣織くんさ」
〈うん〉
「まだ、私の事好きかな?」
〝彼氏〟という立場の人がいて、本当に節操のない人間だと思う。だからこれは、女同士の秘密だ。
実柚里は電話の向こうで声を漏らして笑う。
〈大好きに決まってんじゃん〉
その言葉が心底嬉しくて。それなのに、またダメなことをしてしまった罪悪感があって。なのにどうして、こんなに満たされた気持ちになるのだろう。
〈だからさっさと別れて〉
「二人が諦めてくれるまで別れないかもね」
美来がそう言うと、実柚里は電話越しでふてくされた声を出した。
〈いいもん、別に! でも諦めないからね!! 私も衣織も!!〉
実柚里は電話越しで叫んで一方的に電話を切った。
美来はやっと、息をつく。
周りの環境が、何もかも一気に変わろうとしている。
【今電話いい?】
つまり〝今、ハルさんとは一緒にいないよね〟という事だろう。だとしたら美来は、すでに実柚里の話の内容を察していた。
実柚里は律儀だ。きっと昨日感情的になった事を謝ろうと思っているに違いない。
【いいよ】
美来がそれだけのメッセージを送ると、すぐに既読が付いた。実柚里は画面を開いたまま待っていたのだろう。
ハルは出かけて行った。どこに行ったのかは知らないが、今日は夜ご飯はいらないらしい。本当にどこまでも彼氏彼女っぽくないなと思っていると、実柚里からの電話がかかってきた。
「もしもし」
〈もしもし、美来さん〉
機械ごしに聞く実柚里の声は、いつもよりずっと落ち着いている。
〈昨日はごめんね〉
実柚里は申し訳なさそうにそういう。それは、まだ実柚里が衣織の事を好きだった時代に感情的に美来を罵って謝ったスナックでの出来事を思い出させた。
「気にしてないよ。実柚里ちゃんの言いたい事もわかるし」
わかっている。実柚里がハルの事を心から心配しているという事も、大切だという事も。それから〝同棲する〟という二人で下したはずの決断が、ハルにさらに大きな決断をさせてしまっている事も、全部わかっている。
〈美来さん、本当はね〉
「うん」
〈衣織と付き合ってるって、嘘なんだ〉
「……え?」
そういう実柚里に心臓を掴まれた様な気持ちになった。
だって二人は普通にキスをしていたじゃないか。いがみ合っているばかりの二人が、付き合っていないのにそんなことをするはずがなくて。
混乱して言葉一つでない美来をよそに、実柚里は口を開く。
〈だって美来さんとハルさんが付き合うはずないんだもん。私たちに諦めさせるためにやってるって、すぐわかった。だから、じゃあこっちも付き合うフリしたら二人ともさっさと別れるんじゃないかって思って〉
「いや、でも、キスしてたじゃん。……してたよね……?」
〈キスくらいするよ。それでハルさんが、美来さんと別れるなら〉
キスくらい、するのか。
それはきっとハルも驚きの事実だろう。まさかいがみ合っているはずの二人が、そんなことをするなんて。
もしかすると衣織の昨日の態度は、もう自分の事なんて眼中に無くなってしまった証拠なのかもしれないが。
〈でもハルさんも美来さんもここまでするって思わなかったでしょ? 二人の中では私たちは、大人として守ってあげないといけない子どもだもんね〉
実柚里の声色は凄く寂しそうで。なんだか悲しい響きをしていた。
子どもだと思っていた。少しも疑わずに。
でも子どもの方が本当に大切なことを知っているのかもしれないと、何度も思ったことを思い出したみたいに、また思う。
ただ好きだとか、誰かに夢中なるだけで、たったそれだけで、なんでもできるような気がしてしまう。衣織や実柚里と同じくらいの年齢の時には、今の二人と同じように根拠のない自信があって。いつの間にか忘れてしまった。
〈……美来さん、私ね〉
「うん」
〈恋愛が第一みたいな人の気持ちって、全然わからなかった。でも今なら、そんな女の子の気持ちがよくわかる。自分が自分じゃないみたいだもん〉
それはなんだか学生時代に、友達の相談に乗っているみたいで。
〈ハルさんと同じくらいの年齢だったらよかったって思うよ〉
『だけど今ね、本気で年齢がもっと〝大人〟だったらよかったのに、って思ってる』
衣織はそう言っていた。
〈そうしたらどんな形でも、ハルさんの側に居られたのに〉
『もしそうだったら、美来さんはきっと俺と一緒にいてくれるのにって』
その後に衣織が言った言葉もまた、実柚里と似たようなもので。
〝恋〟なんて呼べる甘酸っぱいものは、もう関わることはないと思っていた。それよりももっと安定して根を張るような。これからはそんな恋愛をするのだろうと思っていたのに。
衣織と実柚里の真っ直ぐ過ぎる想いが痛いくらい胸を突きさして、息をする事さえ苦しい。
どうして人生というのは時々、残酷な事が起こるのだろう。
神様は乗り越えられない試練は与えないと言うが、それはきっと嘘だ。
試練を前にどうするかわからずにあたふたとしている間にその環境に慣れて、それから時間だけが流れて、何となく解決した気になっているだけ。
〈諦めないから。私達〉
最初からこんな同棲は、意味がなかったのだろう。
子どもたちの凄さを大人が思い知っただけで、二人の団結力を高めただけなのかもしれない。
どんな言葉にしようと思った。この期に及んで〝本当に好きで付き合ってるんだよ〟というのは、今更だろうか。きっと鼻で笑われるだけ。ハルには取り付く島もないとわかっているから昨日も今日も自分に言ってくるのだろうという事を美来は理解していた。
ハルならきっとテキトーにうまくやって電話を切るだろう。残念ながらそれほど口達者ではない。ただもしもハルの様にテキトーにあしらったとして。
この子たちが諦めるのは一体いつになるだろう。一体いつまで、この無意味な同棲を続ければいい。
もう、お手上げだ。
「……私たちが本気で付き合ってるとは思わなかった?」
美来がそう言うと、電話の向こうで実柚里が短く笑った。
〈じゃあ美来さん達は、私と衣織が本気で付き合ってると思った?〉
「思ってなかったよ。キスしてる動画みるまではね」
〈でしょ? 私も衣織も、同じだよ。だってハルさんと美来さんじゃ絶対に性格合わないって私たちは最初から思ってたし。本気で引き離しそうだったから、同棲くらいしそうだねって話してたし〉
最初から何もかもバレていたのか。
やっぱりこの付き合っているという事実も、同棲も、無意味だったのか。
だったらもう遠回しなことはやめて、直接向き合って話をするしかないという事になるのだろう。
〈ねー、美来さん〉
「なに?」
〈迷惑だったのかな? ハルさんにとって、私って〉
気丈にふるまっても隠し切れない悲しさが実柚里の言葉の響きにはあって。
ハルはね、本当は実柚里ちゃんの事が大好きなんだよ。そんな風にあっさり言えたら、どれだけ気が楽か。
しかし美来は何となく、実柚里はハルの気持ちを察しているのではないかと思った。
「それは私に聞かなくてもさ、ハルの事をよくわかってる実柚里ちゃんが一番知ってるんじゃないの?」
そう言うと実柚里は電話越しで笑った。
〈だよね。いい感じだと思ったんだよ。なんとなくね。でもダメだった。ハルさんガード固いんだもん〉
実柚里は友達に愚痴を言うみたいに言う。実柚里は本当にハルの事をよく見ていると思う。
きっとハルは自分の気持ちを出さない様にと実柚里と関わって、それでもきっと実柚里の事が好きだから無意識に出てしまった何かを、実柚里がほんの少しだけすくい取ってしまったのだろう。
実柚里がすくい取った何かはきっと、言葉にはならないもので。自分が衣織に感じた様な、言葉にはならない安心感だとか、息の合った調子だとか。そんなものなのだと思う。
〈私さ、なんか辛いよ〉
「私とハルが付き合ってること?」
〈それもそうだけど。……衣織、意外といいヤツだからさ、ああ見えて〉
実柚里がまさか衣織の事を褒めるとは思ってなかった。
美来の頭の中には、昨日の目も合わせずに実柚里の名前を呼ぶ衣織が浮かんだ。
「……ねー実柚里ちゃん」
〈なに?〉
「衣織くんさ」
〈うん〉
「まだ、私の事好きかな?」
〝彼氏〟という立場の人がいて、本当に節操のない人間だと思う。だからこれは、女同士の秘密だ。
実柚里は電話の向こうで声を漏らして笑う。
〈大好きに決まってんじゃん〉
その言葉が心底嬉しくて。それなのに、またダメなことをしてしまった罪悪感があって。なのにどうして、こんなに満たされた気持ちになるのだろう。
〈だからさっさと別れて〉
「二人が諦めてくれるまで別れないかもね」
美来がそう言うと、実柚里は電話越しでふてくされた声を出した。
〈いいもん、別に! でも諦めないからね!! 私も衣織も!!〉
実柚里は電話越しで叫んで一方的に電話を切った。
美来はやっと、息をつく。
周りの環境が、何もかも一気に変わろうとしている。