ダメな大人の見本的な人生

93:損切り

 月曜日。仕事からの帰り道。今日は真っ直ぐに家に帰ろうと決めていた。
 昨日、実柚里と話をしたことをまだハルに話せていない。昨日はハルが帰ってきたのが遅く、美来は先に寝ていた。今朝は美来は仕事に行くためにバタバタしていてゆっくり話す時間がなかったから。

 帰ってきたら話があると伝えて家を出たから、おそらくハルは家にいるはずだ。
 だから急いで帰ろうと思っていたのに。

「……どうしてここにいるんですか?」

 美来は仕事の帰り道に目の前にいる葵に思わず眉をひそめてそう言った。

 葵がここにいるという事は間違いなく衣織に関する事だ。つまり、面倒ごとが増えるという事。
 本当に勘弁してほしい気持ちが、意図せずに全て表情に出ていた。

「衣織くんと一緒にいるのはやめたんですか?」

 葵は世間話をするくらい軽く言う。そんな簡単な話ではないから、葵の言葉に答える気にはなれなかった。それにどれだけ悩んでいるか知らないくせに。

 何も答えない美来に葵は表情を崩さず、それどころか圧倒的余裕がある笑顔を作った。

「〝歳が近い〟彼女ができたみたいですけど」

 明確にツボを狙って打ちにかかってくる葵。グサという効果音と共に胸を一突きされた気持ちになる。

 衣織と実柚里のキスシーンが頭の中に浮かぶ。
 いや、キスくらいでなんだ。しかも二人は付き合ってないって言ってたし。しかしそれをいちいち説明していると負け惜しみみたいに聞こえると思った美来は冷静を装って口を開く。

「別に、私には関係ないですし。……最初から付き合っている訳でもなかったし」

 なんだか余計に言い訳みたいに聞こえて。

 葵は黙っていた。
 どうして黙るんだよ。気まずいんだから、何でもいいから普通に話してよ自分がふった話のくせにと思う美来をよそに、葵はニコリと満面の笑顔で美来を見た。

「今、どんなお気持ちですかー?」

 美来は唖然とした。この女、本当に本当に性格が悪いな。自分でそこそこ性格が悪めと自覚している美来だったが、葵の性格の悪さはもう少し上を行くと思った。

「……性格が悪い」
「でも社会で実績は持ってますからー」

 葵は品のある満面の笑みを崩さずに言う。
 以前会った時は隠していたのに、どうして今になって性格の悪さを晒そうと思ったのか、思う所があるのならぜひ聞かせていただきたい。

 じとりとした目で見る美来をよそに、葵はふっと、表情を消した。

「男が人生をかけて必死に積み上げてきたものの隣に一瞬で座ってしまえるのが、女という生き物です」

 先ほどの笑顔の余韻を微塵も残さずに、葵は真剣な様子でそういう。

 衣織が積み上げたものの隣にお前が座ろうとしていると言いたいのだろうか。
 しかし葵は美来が何を深く考える間を与えないようにしているみたいに、すぐに口を開いた。

「そして男という生き物は、個人の能力がどれだけ優秀だったとしても、隣にいる女で変わってしまう」

 やはり葵が言いたいのは、お前は衣織の隣にいるのはふさわしくないという事なのか。

 『美来さんは誰かに幸せにしてもらう事しか考えてない』
 実柚里の正論が胸を刺す。昨日、実柚里と電話で話をして聞いた衣織が今もまだ自分を好きだという事実は、やっぱり聞かなかったことにしようと思った。

「衣織くん、頑張っていたんですよ」

 ぽつりとつぶやく葵の声は、優しい。
 その言葉だけで、葵が本当に純粋な気持ちで衣織を応援しようと思っている事が伝わって。

「私と美来さんが話をしてからすぐ、衣織くんは本当によく頑張っていた」

 確かに衣織はその辺りから、いつも仕事が忙しい様子だった。

「本当に美来さんの事が好きなのだろうなと、素直に思いました。……衣織くんはきっと、自分が家に行くたびに凝った料理ばかり出す女性ではなくて、いいレストランで外食をさせる女性でもなくて。初対面で平気でカップラーメンを食べさせようとする美来さんと一緒にいるのが、あの子にとっては気楽だったのでしょう」
「……どうしてカップラーメンの話知ってるんですか……」
「衣織くんに聞いたんです。『衣織くんはたくさんの人と遊ぶけど、どんな人がタイプなの?』って。そしたら衣織くんは少し考えて、それから笑って、『初対面でカップラーメンを食べさせようとする人』って言ったんですよ。すぐに美来さんの事だと思いました」

 〝初対面でカップラーメンを食べさせようとする人〟と聞いて顔が浮かぶなんて。葵から見た自分はそこまで印象が悪いのだろうか。

「私なら絶対に年下のあんな可愛い子にカップラーメンを出そうとは思わないから、衝撃的でした」

 衝撃的で悪かったなと思ったが美来はあまり言うと墓穴を掘りそうだったのでぐっとこらえた。

「でも実際に食べさせてないですからね。カップラーメン」
「それも知っています。『世界一美味しい鍋を食べさせてもらった』って言っていましたから」

 葵の事を何も話してくれなかったのに、葵には自分の話をたくさんしていた。その事実がなんだか、嬉しくて。

「嬉しそうに話すんですよ、衣織くん。『葵さん知ってる? 鍋の素っていうのあって、それと具を入れるだけで凄い美味しいんだよ』って。あの子に残り物の材料を入れた鍋を食べさせるのもきっと、あなたくらいだと思いました」

 もしかすると葵は間接的にけなしたいだけなのではと思ったが、今の葵にそんな様子はなくて。しかし、いつもテキトーに食事をとっている事がバレてふつうに結構恥ずかしい気持ちになる。

「私はきっと衣織くんは、自分にとって平和な場所を守りたくて必死に戦っているんだろうと思いました」

 自分が衣織にとっての〝平和な場所〟そんなイメージは少しも湧かなくて。どちらかと言えばその言葉にピタリとハマるのは自分の方だ。

「……その話を聞いて、私にどうしろというんですか」
「この話を聞いて、あなたはどうしたいですか」

 美来の言葉に間髪入れずに、葵は言う。
 美来はまさか問いかけられるとは思わず、押し黙った。

「優秀な経営者が必ず持っている能力。なんだと思いますか?」
「……わかりません」
「答えは〝損切(そんぎ)り〟です」
「損切り……?」
「そう。優秀な経営者は、見込みがないと思えば手をかけた事業から撤退します。……まだ傷が浅いうちに。つまり私は、衣織くんのマネージャーにはなれるけど、パートナーにはなれないと思ったから彼の将来から身を引く。それだけです」

 本当にどこまでも潔い女性だと思った。自分とは本当に何もかも、大違いで。女でも惚れそうな人の側にいるのにブレない衣織は何なのか。もしかするとその原因が自分なのではないかと思うと、美来はなんだか少しだけ温かい気持ちになる。

 自分自身が年齢を気にしているうちは、何も解決しないのに。

「今の衣織くんは、なんだかパッとしないんですよ。できることならどうにかしてほしいんですが」

 その時、美来のスマホが鳴った。
 画面には〝ハル〟の文字。

「そういえば、三澄さんと知り合いだとか」

 葵はそう言うと、期待を一切していない様なあっさりした態度で踵を返した。

「あなたに言うのはお門違いだったのかもしれません。どうぞ忘れてください」

 あっさりと去って行く葵の背中を、美来はなんだか引き止めたい気持ちになっていた。
 どうしてこんな気持ちになるんだろう。
 意味が分からない。

 美来はハルからの電話に出た。

〈お前、走って帰ってくるって言ってたろーが。あと、洗濯洗剤、〉
「飲んで帰る」
〈は? ……おいちょっとま、〉

 美来はハルの言葉の途中で電話を切り、それからスマートフォンの電源まで落とした。

 そして一息ついて思う。

 じゃあ一体どうすればいいんだろう。
 これから先の人生。

 美来は行く当てもなくとぼとぼと歩いて、繁華街の中に入った。
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