ダメな大人の見本的な人生
94:キャパオーバー
なんだかもう、人生がめんどくさくなってしまった。しかし、生きていくしかない訳で。
とりあえず人の多い繁華街に入って人に紛れてみたが、気分は全く晴れない。
葵は、衣織がこのまま腐っていくと思ったのだろうか。だからどうにかしてほしいと頼みに来た。
しかし、どうにかしてほしいのはこちらの方だと美来は思った。
何もかも大きく変わろうとしている環境に、気持ちがついていけない。
みんな、本当にそんな高度なことをやって生きているのだろうか。人生とは、そういうものなのだろうか。
会社が嫌だと思っても踏ん張って何とかして、恋人とうまくいかなくなっても一人寂しい家で自分で自分の機嫌をとって。
だとしたらきっと、自分は欠陥品だとおもう。たった一人で世間の荒波を乗り越えようという気にはならないから。
別に誰かに寄り掛かって生きていきたい訳じゃなくて。ただ、その都度話を聞いてくれるような人が欲しい。人生というのは、それすらもわがままになるのだろうか。
ただ世間体が気になるから年齢は近い方がよくて。同じ職場の人と関係を持っていない様な、そんな人がよくて。ここまでいくと、わがままな気がしてきた。
大人になってからも、自分というものが未だによく分からない。
「大丈夫ですか?」
居酒屋の二人席でひたすら人生について考えながら一人でビールを飲んでいる美来に、アルバイトの若い女の子は心配そうに声をかける。
他人の大丈夫ですか、というありきたりな声さえ心に染みるのだから本当にもういろいろとヤバい気がする。
「……だいじょうぶ、です」
まだ飲みたりない。もう記憶がぶっ飛ぶまで飲みたい。
そんな気持ちだったのでここから追い出されるわけにはいかない美来は、呂律が回っていない事を必死に隠して、一言一言をしっかりと言ったつもりだったが、逆に酔っぱらいに見えたかもしれない。
女の人は、「わかりました」とだけ言って去って行く。
一人で居酒屋に入るなんて、人の目を気にする少し前の自分にはできなかったに違いない。しかし今はもう無敵な気がした。このごちゃごちゃして収集が付かなくなった人生に比べたらなんてことはない。居酒屋に一人で入るくらいなんだ。朝飯前だ。別に他人からの視線なんてどうでもいい。
人生も同じように、そう思って生きていけたら楽なのに。
美来は先ほど声をかけてくれたスタッフの人にビールを頼めばよかったと思いながら、隣を通り過ぎる店員にビールを頼んだ。
顔がいいともてはやされてきた女と言えども、居酒屋で一人で酒をのんで普通に酔っぱらっている様子のおかしい女に話しかけようという猛者はいないらしい。
話しかけろよ。今ノーガードなんだからと思いながらも、やっぱり話しかけられても困る。今は一人で飲みたい気分だと思った。
綺麗なバーとか、知り合いのいるスナックとか、そんなところじゃなくて。
誰一人自分を知らない人に紛れて、酒を飲んでいたい。
ビールジョッキをテーブルに置いて、握ったままずるずると奥の方へ押す。そして美来はテーブルに頬をつけた。
テーブルが冷たくて気持ちいい。テーブルが冷たくて気持ちがいいと感じるときは酔っているときだという統計を知っていた美来は、そこでやっと自分が相当酔っている事に気が付いたが、酔っている感覚が生ぬるい液体に脳みそまでひたっているみたいで心地よくて、美来はそのまま目を閉じた。
「……こんなところにいた」
聞きなれていたはずで、でももう今は懐かしく感じる声が聞こえて、目を開けた。
「美来さん」
誰だかわからない声に名前を呼ばれて、思わず泣きそうになる。
顔を上げて声の方へ視線を移すと、目の前の椅子に衣織が座っていた。しかしぬるま湯にひたっている脳みそは、幻覚か何かだろうという所に落ち着く。
とうとう幻覚が見え始めたのか。どんだけ好きなんだよ。もう付き合えよ。万事解決だろ。と心の中のもう一人の自分がそういう。
一人で喋っていると思われると、店から追い出されてタクシーに突っ込まれる。もしくは警察のお世話になるだろう。
誰にも連絡をしていないんだから、誰もいるはずがない。しかし、しばらくしても目の前の衣織は消えなかった。
そこには明らかに誰かがいて、可能性があるとすれば飲んで帰ると連絡をしたハルだ。
「……ハル?」
「は?」
目の前の衣織はそれはそれは不機嫌そうに、眉間に皺を寄せた。ほら。衣織は自分にそんな顔をしない。しかしハルでもないなら幻覚なのだろう。そう思った美来はさっさとおかえりいただこうともう一度机に突っ伏そうとした。
「待って」
目の前から伸びた手が寝ようとする美来の頬とテーブルの隙間に入り込んで、エレベーターみたいに上昇する。衣織の手のひらに支えられて眠ることができなかった美来は、眉間に皺を寄せた。
「……もう、なによ」
「帰ろう」
「……帰るってどこによ」
「家だよ」
だから家ってどこだよ。と思ったが、家というのはもちろん自分の家しかない訳で。いや、もしかすると新手のナンパだったら、〝俺の家〟なのかもしれない。
しかしもう、どうでもいい。
「じゃあもうタクシーまで運んで」
〝誰だか知らないけど〟と思った。美来がそう言うと衣織もどきは、美来に肩を貸して立ち上がらせた。もしかすると本当に新手のナンパだろうか。居酒屋で一人で飲んで潰れる女をナンパするのなら、猛者すぎると思うが。
「心配したんだよ」
衣織もどきの言葉に、不覚にも泣きそうになる。
「心配してくれたの?」
「当たり前だよ」
「……普通にいいヤツじゃん」
自分が『心配したんだよ』なんてありきたりな一言におちるなんて思わなかった。ああ、酒。酒が足りない。こうやってアル中になるんだと、最近思う事が多い気がする。
冷たい空気が頬に触れて目を開ける。誰かに背負われていた。
外を背負われて歩いている。居酒屋で酒を飲んでいたはずなのに。そう考えて美来は男性の後頭部を見た。
こんな状況ある? と少し酔いから醒めた頭で思う。
「……誰……ですかね……?」
美来はまだ酔った頭で問いかける。
背中に乗っておいて〝誰ですかね〟はどう考えてもヤバいが、本当に誰かわからない。そしてホテルや家に行く前ならまだセーフだと思った。
酔っていても考える事が人間の底辺過ぎて本当にイヤになってくる。
「俺」
その声には聞き覚えがあって。
そして美来は同時に先ほどの出来事も思い出した。
何をしゃべったのかは覚えていないが、居酒屋にいて誰かに目の前で声をかけられて。連れて帰ってとかなんとか言った様な気がするが、ほとんど覚えていない。
たしかハルだと思って。だけど、どうしてだか忘れたが、ハルではないと思って。
「……衣織くん」
「そう」
衣織は平坦な口調で言う。怒っているのか、悲しんでいるのか、美来にはわからなかった。
衣織の背中にいるのか。
そう思うと堪らなく愛しくなってしまって。
美来はしがみつくふりをして、衣織の首に腕を回して身体を寄せた。
「くるしい?」
「くるしい」
美来の問いかけに、衣織はぼそりと呟いた。
「でも、そのままでいいよ」
やはりポツリと衣織は言う。
その声が胸の奥まで響いて。衣織の事が好きだと、実感する。
とりあえず人の多い繁華街に入って人に紛れてみたが、気分は全く晴れない。
葵は、衣織がこのまま腐っていくと思ったのだろうか。だからどうにかしてほしいと頼みに来た。
しかし、どうにかしてほしいのはこちらの方だと美来は思った。
何もかも大きく変わろうとしている環境に、気持ちがついていけない。
みんな、本当にそんな高度なことをやって生きているのだろうか。人生とは、そういうものなのだろうか。
会社が嫌だと思っても踏ん張って何とかして、恋人とうまくいかなくなっても一人寂しい家で自分で自分の機嫌をとって。
だとしたらきっと、自分は欠陥品だとおもう。たった一人で世間の荒波を乗り越えようという気にはならないから。
別に誰かに寄り掛かって生きていきたい訳じゃなくて。ただ、その都度話を聞いてくれるような人が欲しい。人生というのは、それすらもわがままになるのだろうか。
ただ世間体が気になるから年齢は近い方がよくて。同じ職場の人と関係を持っていない様な、そんな人がよくて。ここまでいくと、わがままな気がしてきた。
大人になってからも、自分というものが未だによく分からない。
「大丈夫ですか?」
居酒屋の二人席でひたすら人生について考えながら一人でビールを飲んでいる美来に、アルバイトの若い女の子は心配そうに声をかける。
他人の大丈夫ですか、というありきたりな声さえ心に染みるのだから本当にもういろいろとヤバい気がする。
「……だいじょうぶ、です」
まだ飲みたりない。もう記憶がぶっ飛ぶまで飲みたい。
そんな気持ちだったのでここから追い出されるわけにはいかない美来は、呂律が回っていない事を必死に隠して、一言一言をしっかりと言ったつもりだったが、逆に酔っぱらいに見えたかもしれない。
女の人は、「わかりました」とだけ言って去って行く。
一人で居酒屋に入るなんて、人の目を気にする少し前の自分にはできなかったに違いない。しかし今はもう無敵な気がした。このごちゃごちゃして収集が付かなくなった人生に比べたらなんてことはない。居酒屋に一人で入るくらいなんだ。朝飯前だ。別に他人からの視線なんてどうでもいい。
人生も同じように、そう思って生きていけたら楽なのに。
美来は先ほど声をかけてくれたスタッフの人にビールを頼めばよかったと思いながら、隣を通り過ぎる店員にビールを頼んだ。
顔がいいともてはやされてきた女と言えども、居酒屋で一人で酒をのんで普通に酔っぱらっている様子のおかしい女に話しかけようという猛者はいないらしい。
話しかけろよ。今ノーガードなんだからと思いながらも、やっぱり話しかけられても困る。今は一人で飲みたい気分だと思った。
綺麗なバーとか、知り合いのいるスナックとか、そんなところじゃなくて。
誰一人自分を知らない人に紛れて、酒を飲んでいたい。
ビールジョッキをテーブルに置いて、握ったままずるずると奥の方へ押す。そして美来はテーブルに頬をつけた。
テーブルが冷たくて気持ちいい。テーブルが冷たくて気持ちがいいと感じるときは酔っているときだという統計を知っていた美来は、そこでやっと自分が相当酔っている事に気が付いたが、酔っている感覚が生ぬるい液体に脳みそまでひたっているみたいで心地よくて、美来はそのまま目を閉じた。
「……こんなところにいた」
聞きなれていたはずで、でももう今は懐かしく感じる声が聞こえて、目を開けた。
「美来さん」
誰だかわからない声に名前を呼ばれて、思わず泣きそうになる。
顔を上げて声の方へ視線を移すと、目の前の椅子に衣織が座っていた。しかしぬるま湯にひたっている脳みそは、幻覚か何かだろうという所に落ち着く。
とうとう幻覚が見え始めたのか。どんだけ好きなんだよ。もう付き合えよ。万事解決だろ。と心の中のもう一人の自分がそういう。
一人で喋っていると思われると、店から追い出されてタクシーに突っ込まれる。もしくは警察のお世話になるだろう。
誰にも連絡をしていないんだから、誰もいるはずがない。しかし、しばらくしても目の前の衣織は消えなかった。
そこには明らかに誰かがいて、可能性があるとすれば飲んで帰ると連絡をしたハルだ。
「……ハル?」
「は?」
目の前の衣織はそれはそれは不機嫌そうに、眉間に皺を寄せた。ほら。衣織は自分にそんな顔をしない。しかしハルでもないなら幻覚なのだろう。そう思った美来はさっさとおかえりいただこうともう一度机に突っ伏そうとした。
「待って」
目の前から伸びた手が寝ようとする美来の頬とテーブルの隙間に入り込んで、エレベーターみたいに上昇する。衣織の手のひらに支えられて眠ることができなかった美来は、眉間に皺を寄せた。
「……もう、なによ」
「帰ろう」
「……帰るってどこによ」
「家だよ」
だから家ってどこだよ。と思ったが、家というのはもちろん自分の家しかない訳で。いや、もしかすると新手のナンパだったら、〝俺の家〟なのかもしれない。
しかしもう、どうでもいい。
「じゃあもうタクシーまで運んで」
〝誰だか知らないけど〟と思った。美来がそう言うと衣織もどきは、美来に肩を貸して立ち上がらせた。もしかすると本当に新手のナンパだろうか。居酒屋で一人で飲んで潰れる女をナンパするのなら、猛者すぎると思うが。
「心配したんだよ」
衣織もどきの言葉に、不覚にも泣きそうになる。
「心配してくれたの?」
「当たり前だよ」
「……普通にいいヤツじゃん」
自分が『心配したんだよ』なんてありきたりな一言におちるなんて思わなかった。ああ、酒。酒が足りない。こうやってアル中になるんだと、最近思う事が多い気がする。
冷たい空気が頬に触れて目を開ける。誰かに背負われていた。
外を背負われて歩いている。居酒屋で酒を飲んでいたはずなのに。そう考えて美来は男性の後頭部を見た。
こんな状況ある? と少し酔いから醒めた頭で思う。
「……誰……ですかね……?」
美来はまだ酔った頭で問いかける。
背中に乗っておいて〝誰ですかね〟はどう考えてもヤバいが、本当に誰かわからない。そしてホテルや家に行く前ならまだセーフだと思った。
酔っていても考える事が人間の底辺過ぎて本当にイヤになってくる。
「俺」
その声には聞き覚えがあって。
そして美来は同時に先ほどの出来事も思い出した。
何をしゃべったのかは覚えていないが、居酒屋にいて誰かに目の前で声をかけられて。連れて帰ってとかなんとか言った様な気がするが、ほとんど覚えていない。
たしかハルだと思って。だけど、どうしてだか忘れたが、ハルではないと思って。
「……衣織くん」
「そう」
衣織は平坦な口調で言う。怒っているのか、悲しんでいるのか、美来にはわからなかった。
衣織の背中にいるのか。
そう思うと堪らなく愛しくなってしまって。
美来はしがみつくふりをして、衣織の首に腕を回して身体を寄せた。
「くるしい?」
「くるしい」
美来の問いかけに、衣織はぼそりと呟いた。
「でも、そのままでいいよ」
やはりポツリと衣織は言う。
その声が胸の奥まで響いて。衣織の事が好きだと、実感する。