ダメな大人の見本的な人生

96:もう終わった事

「昨日はご迷惑をおかけしました」

 朝、ハルに叩き起こされ、必要最低限の準備だけを済ませて家を飛び出して会社に向かい、昨日の出来事を出社から帰宅まで頭の中で冷静になぞった結果、帰宅して開口一番にハルに言った言葉がこれだった。

 美来は家のドアを開けてからノンストップで廊下を駆け抜け、リビングのドアを開けてソファーにふんぞり返るハルに近寄り、足元で土下座をして誠心誠意謝った。

「なんかいろいろありすぎてキャパオーバーっていうの? そんな感じになってね。もうなんか、とりあえずそんな感じなんだけど」
「いや、抽象的すぎてわかんねーわ」

 ハルはソファーの上で足を組んでそう吐き捨てたが、すぐに呆れた笑いを浮かべた。

「別にいいってもう。お前の酒癖の悪さには慣れてんだよ」

 確かに、酒の失態を犯したのは今回が始めてではないが、今回は直接的に迷惑をかけてしまったわけで。衣織からハルが心配していたと聞いたし。そう思ったが、きっと心配してくれたんでしょ、なんて問いかけてもハルはのらりくらりとかわすのだと思う。

 おそらくハルの中では昨日の事も〝もう終わった事〟になるのだと思う。

「とりあえず座れよ」

 そう言われて美来はソファーに座っているハルとテーブルをはさんで向かい合った。

「状況を整理する。そして俺達のこれからを考える」
「うん」

 ハルの持ち出した議題に、美来は大きく頷いた。

「実柚里と衣織は付き合ってない」
「そうだね」
「で、実柚里と衣織が動画でキスしてたのは、キスまでしたら本気で実柚里と衣織が付き合っていると思った俺と美来が別れると思ったから」
「そう」
「俺と美来が別れると思った理由は、実柚里と衣織は俺達が本気で付き合ってるなんて最初から微塵も思っていないから」
「その通り」
「つまり……」

 そしてハルは黙った。沈黙の後、美来が口を開く。

「この同棲は全く無意味ってこと……だよね?」

 数か月一緒に暮らしたのだ。美来は寝相が悪いハルの為に自腹を切ってマットレスまで購入した。
 ハルとこの状況を整理すればそれは明確な疲れになって襲ってくる。ここ数か月の労力の全てを考えるとしばらく放心状態になりそうだった。

「俺達は一体……」
「なんのために……」

 それなのに……無意味だった、だと?
 これまでの数か月は、本当に一体何だったんだ。

「絶対に信じてると思ったよね?」
「同棲までしてんだから、さすがに信じると思ったけど」
「二人とも最初から一ミリも信じてなかったらしいよ。……もう、信じられないんだけど」

 絶対に突き放すという大人の気合はどこに行ったのか、二人とも意気消沈して下を向く。ハルは溜息を吐き捨てて背もたれに深く沈んだ。

「……アホらしくなってきたわ」
「ちなみにさ」
「おー」
「実柚里ちゃん、女の私から見ても、凄くいい子だよ」
「推すな」

 美来は「ごめんつい」と呟いた。本当に実柚里はいい子だ。そしてハルによく合っていると思う。同棲中もきっと実柚里ならこうするんだろうな、と何度思ったかわからない。プライドに触れて一つたりとも実行できなかったが。

「衣織は、お前の事大好きだぞ」
「……そんなの言われなくても、もうわかった」

 わかっている。衣織が〝今の〟自分が好きな事くらい。
 きっと男にはわからないだろう。男なんて三十からが人生の本番みたいなもんじゃないか。人生が軌道に乗って、やっと次のフィールドに行こうとするところじゃないか。

 女はこれからが困るのだ。これから徐々に女としての価値は下がっていく。衣織が近い将来、やっぱり別の女の子がいいと言い出したら、本当にただ、傷つくだけ。

 そして昨日の夜、衣織に言った言葉を思い出した。

 『衣織くんは顔が好きって言ってくれるけど、劣化するんだよ。衣織くんはこれから成長して考え方が変わって、一緒にいるとはならないかもしれないじゃん。そうなったら私、もう手遅れだもん。そんなしょーもないことで、傷つきたくないじゃん』

 なんてことを言ってしまったんだと、やはり酒の無敵モードが解けた後の猛反省タイムがやってきた。

「どうするよ? これから」
「想定外すぎて何も考えてないけど……。とりあえずもうちょっと。もうちょっとだけ待ってくれない?」
「別にいいけど……なんで?」
「受付から異動するから」
「まだ言ってたのかよ! もういい加減諦めろや。腹くくれ」
「諦めてるってば! ただ、環境がいろいろ変わるだろうから、急に一気にいろいろ変わるのはちょっと精神的にきつそうだから、それまでちょっと待ってほしいってだけで」
「まあ、別にいいけどさ」

 そう言うとハルは伸びを一つした。

「意外とあっさり決まったな。じゃ、そういう事で。話終わりな」

 ハルはすっきりした顔をしている。この男は本当にこれから先少なくとも美来が同棲解消を言いだすまでは一切悩まないのだろう。
 ハルの中でこれは〝もう終わった事〟になっているのだ。

 本当に素晴らしい切り捨て能力だと思う。

「……私、ちょっとハルを尊敬する」
「は? どこが?」

 ハルは心底不思議そうに言う。

「だって、切り替え速すぎない?」
「そりゃそーだわ。いちいち気にして落ち込んでたら経営なんてできねーの。経営者はな、一日に何回も重要な決断をする。それが失敗したからっていちいち全部抱え込んでたら身が持たねーわ。一回決めたことは後は信じるだけ。で、もしダメだったら被害は最小限で抑える為に損切りする気持ちだけは持っとくことだ」

 葵と同じことを言っている。本当にハルは経営者だったんだなと変な所で感動していた。
 なんだかハルが輝いて見える気がするが、多分幻覚だと思う。

「お前は絶対、経営には向かないな」
「やりたいとも思わないもん。雇われてる方が楽だと思う」
「何もかも違うんだもんなー。俺達は」
「根本的には似てるんだけどね」

 二人で笑い合う。この瞬間が嫌いではなかった。むしろ同棲をしたことで前よりもずっと打ち解けた事を嬉しくも感じていた。
 葵が衣織に対して〝マネージャーにはなれるけどパートナーにはなれない〟と悟った様に、人間には言葉では言い尽くせない相性というものがある。
 
 ハルとは同棲したり付き合ったりするような関係ではきっと長くは続かないが、隣で酒を飲むには相性がいい、という事だ。

「でも、お別れが来るんだなって思うと、ちょっと寂しいね」
「ええー何お前。センチメンタルかよ。可愛いじゃん」

 ハルがニヤニヤしながら茶化すように言うから。美来は面倒になってじとっとした目でハルを見てからキッチンに行くために立ち上がった。

「嘘だよ。何マジになってんの?」

 ハルはそう言って美来の後ろを追いかける。

「もういいですよ~。お腹空いた。何食べる? なんか頼む?」
「なんか作るか。一緒に」

 超効率主義者のハルからの信じられない言葉を聞いて、美来は思わずハルを見た。

「どうせもうすぐ別れんだから」

 ぼそりというハルの言葉を聞いて、今度は美来がにやりと笑った。

「なーんだ、もう。ハルも寂しいんじゃん!」

 そういってハルの肩を思いきり叩く美来だが、ハルはされるがままで「うるせー」と眉間にしわを寄せて不快感をあらわにしている。

 二人の日常も、残り少ない。
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