ダメな大人の見本的な人生

97:もう一歩の距離で向き合う

 美来はいつもは挨拶をして通り過ぎるだけの総務部の事務所で、優しい笑顔だが他人に心を開かなさそうな印象を受ける女上司と向かい合わせで立っていた。

「四月からよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」

 きっとこれから自分の事がもっとイヤになるのだ。普通30と言えば、もうその部署では中堅的な位置にいるものだ。それなのに一体自分は今まで何をしていたんだろう。
 そんな事を考えるきっかけになると思っていたのに。

 倉庫に行って備品の発注作業をすることを説明されたり、ホームページから問い合わせが来た内容を各部署に振り分けたりする、という作業の説明を聞いて楽しそうだと思った。
 受付のように常に笑顔を振りまいて誰かの目を気にする必要はない。もちろん、大きなイベントがあればそういうわけにはいかないだろうが、受付とは比べ物にならないくらい人と関わることが少ない。

「しばらくは受付の教育にも回ってもらいたくてね」

 どう考えても人として終わっているのに、人として終わっている人間が教育なんてできるはずがない。
 この人はよほど見る目がないのだろうと察し、焦る気持ちすら生まれなかった。

「いや……私に教育は無理だと、思うんですが……」
「何言ってるのー。長い事やってきたんだから大丈夫よー」

 冗談めかして言う女性だが、〝長い事〟という年季の入っている言い方に、グサと胸を刺された気持ちになった。

「あまり大きな声では言えないんだけど、受付の子の質っていうの? あんまりよくないのよね。長い事現場にいた人の言う事ならみんな聞くと思うし、教育してもらえると助かるわ。……はい、これ。受付の教育マニュアル。ガンガン変えてもらっていいから」

 美来は受け取った紙のマニュアルをペラペラとめくった。
 それはそれはお粗末な代物。研修を受けて受付に入ってから、マニュアルが役に立たなさ過ぎて苦労したという事を思い出した。

 そうだ。研修の時からちゃんとやっていれば、誰も困ることはないのか。確かに〝長い事〟やってきたから、現場の事はよく分かっている。

「どう? やってくれる?」

 自分に教育は向いていないと思いながらも、自分の経験を踏まえて資料を作り直す事は楽しそうだ。

「やってみます」

 なぜか、心底安心した気持ちになった。
 今までずっと容姿で評価されてきた。その容姿がもう使えなくなる事に焦りを覚えていて。だけどこの世界には容姿で評価されない場所もある。

「じゃあ後でデータ送っておくから」

 美来は受付の仕事をしながら、マニュアルの修正をかける為にパソコンでデータを開く。
 次から次に修正をかけたくなる。気になって仕方がなくて、しかしどこからどう手を付けていいかわからず、まずは受け取った紙のマニュアルに色ペンで修正を入れて行く。

 よくある事なのに、これじゃあ文字が小さすぎてみつけられない。
 これはほとんど使わないから補足でいい。

 集中していると時間はあっと言う間に過ぎる。異動してほしいと言われた時よりももっと、体感時間が短い仕事時間。
 終業時間までに修正を入れ終わることができずに定時が来た。
 まだ仕事をしたいと思った事なんて、これが初めてで。仕事が好きで残業をする人の気持ちが、今ならわかる気がした。

 もしかすると初めて任された仕事で舞い上がっているだけなのかもしれない。しかし、自分は個人的に資料を作ったり細かい所にこだわることに対しては大して苦痛を感じないのだという事を学んだ。
 この歳になって、自分の新たな一面を発見する事になるなんて思ってもいなかった。

 しかし、時間を過ぎれは受付は必要ないので美来はさっさと会社を出た。

 あれほどイヤだった異動はもしかすると、自分の転機なのかもしれない。もしかすると30歳という壁を越えて、どうにでもなれ、となってしまっているのかもしれないが。

 こういう生活なら苦痛はないな。そう思うとなんだか無性に衣織に会いたくなる。本当に単純な女だと思ったが、美来が男性にデートに誘われ続けて感じていた、〝男性は仕事がうまくいっているときに女性に声をかける〟という予想を実感した気になって、女性にも当てはまるのかもしれないなと思った。

 今ならなんだか、中途半端な関わりになった衣織としっかりとした話ができる気がする。しかしこういうことはしっかりと自分の気持ちが決まって、立場も安定してからにしなければ、また問題が増えるだけかもしれない。

 そう思いながら会社を出たのに、すぐに見つけた衣織に思わずふっと気が緩んだ。

「なにしてるの?」
「会いたいって思ったから」

 久しぶりにまともに見る衣織は、以前よりも少し表情が落ち着いた気がする。

「途中まで、一緒にいい?」
「うん」

 美来がそう言って歩き出すと、衣織は美来の隣を歩いた。

「美来さん、いい事あったの?」
「……どうしてわかるの?」
「わかるよ。この前迎えに行った時と全然違う顔してる。仕事帰りにそんな顔している美来さん、初めて見た」

 衣織は小さな表情の変化にも気付いてくれる。それは中身までよく見ようと思っている証拠に思えた。
 別に〝いい事〟を隠そうと思っている訳じゃない。ただそんな事よりも衣織の側にいられることが嬉しくて。気持ちが先に先にとはやっているだけ。

「この前はありがとう」
「考えたんだ」

 美来の言葉から少し遅れて、衣織は口を開く。
 何の脈絡もない。ただおそらく、彼にとってはすごく、重要な事。気持ちをすぐに切り替える。こうやって〝慣れ〟で感情を切り替えるところは、自分でちゃんと大人になったと思える。

「美来さんの顔が好きって言うたびに、不安にさせてたんだなって」
「……顔が好きって言われるのはプレッシャーだよ。中身がないみたいで。……贅沢な悩みかもしれないけど」
「悩みに贅沢とかそうじゃないとか、そんなランクなんてないよ。美来さんが真剣に悩んでるなら、それはちゃんと悩みだと思う」

 こんな風に言ってくれる人が世の中にもいるんだなと、また新しい価値観に触れた気持ちになる。

「俺だって一緒だよ。この行動は美来さんからしたら子どもっぽく見えたかなとか、いろんな事を考えた。いつまでも子どものままだって美来さんに思われて嫌われるかもしれないって、気を付けてたよ」

 衣織はてっきり、全部計算して行っているのだと思っていた。衣織にも自分の行動と気持ちに葛藤があっただなんて。考えもしなかった。同じ人間なのだと思い知って、そして同時にまだ18歳の男の子なのだと思い知る。

「でもそんな事言ってたら俺は、美来さんが誰かと恋愛して、結婚していくの黙って見てるだけしかできない負け犬じゃん。で、いつか、あーあの時の綺麗なお姉さんにちゃんとアピールしてたらどんな人生だったんだろうって考える日が来ると思う」

 ただただ、真っ直ぐな想い。それは大人には、時に眩しくて、疑ってしまって、直視できないくらい。きっと打算的な思考をまだ持っていない不純物の混じっていない感情だから、これほど真っ直ぐに届くのだと思う。

「どうせ年上のお姉さんしか好きになれないし」
「わかんないじゃん。年下もいいなーって思う日が来るかもよ。衣織くんはまだ若いから年下の魅力に気付いてないだけで」

 美来は笑顔でいうが、衣織の顔に笑顔が浮かぶことはなかった。
 何かまずい事を言っただろうか。そう思う美来をよそに、衣織は意を決したように口を開いた。

「美来さん、俺ね」
「うん」
「俺くらいの年齢の女の子の顔、わかんないんだ」

 衣織の言う言葉の意味が、理解できない。

 ただ、頭の中にはそれを〝知っている〟ような事を思い出す。

 『ごめん。誰だっけ?』
 何度も衣織から、その言葉を聞いた。
 初めて実柚里がスナックに来た日も、実柚里が清楚な格好をして現れた時も、それから、ハロウィンの時に制服のコスプレを美来が着た時にも。

 いつもいつも、視界には霧でもかかっているのかと思うくらい注視した様子で、衣織は言った。
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