ダメな大人の見本的な人生

98:どうにかしたい

「衣織くん。……女の子の顔、わからないの?」

 冗談だよー、と言われてもおかしくない話だと思った。今初めて衣織が女の子の顔が分からないという事実を聞いたというのに、過去に触れた衣織という人間の情報から、全てが結びついた様な、そんな錯覚。

「うん、そう」

 自分の中では何かしら整理がついているのか、ぽつりと明るい口調で衣織は言う。衣織の様子についていけないのは美来の方だった。

「言葉にするのは難しいんだけど、とにかく見えないんだよ。認識できないっていうのかもしれない。そこだけ霧がかかったみたいって言うか、モヤっとしてるって言うか……」
「……ずっと、わからないの?」
「小学校3年生になってから。ストレスなんだって」
「ストレス? 学校生活の?」
「うん。俺の母親、いろいろとめっちゃ細かくてさ」

 衣織から母親の話題を出されて思い出したのは、衣織に鍋をふるまった時の出来事だった。

 カップラーメンなんてもってのほかで、鍋の素すら食べたことがなくて、毎週毎週冷凍の栄養がしっかり入った弁当を送ってくる母親の話。

「普通小学生って、みんなでゲームとかするじゃん。でももちろんゲームを持つのは禁止だし、よその家で見るのもダメでさ。集中がそれるからってキャラクターものは絶対禁止って言われて、俺一人だけ無地の鉛筆使ってたり。市販の菓子を食べた事なかったりとか。アニメを何一つ知らないとか」

 以前に母親の話を聞いた時に衣織をオーガニックボーイだと思ったが、オーガニックボーイが可愛く思えるレベルの事実だ。
 大人になった今では、きっと母親にもいろいろと思う所があったのだろうと想像できるが、それにしても衣織の気持ちを考えてなさすぎなのではと、さらに言葉を選ばずに言うのなら、母親のその行動が原因で精神的に参ったのなら、もはや虐待なのでは。

「そういう小さいのが積み重なって、クラスで仲間外れにされた事があってさ。その時、俺と似た境遇の女の子が話しかけてくれて遊ぶようになったんだけど、陰で俺の事いろいろ言ってるってわかったんだよね」

 まるで〝もう終わった事〟とでも言いたげに、衣織はただ淡々と事実を語る。
 それを真顔で聞いていられないのは美来の方で、美来は思わずほんの少し眉間にしわをよせて衣織の話に耳を傾けていた。

「人に合わせてるんだろうってすぐにわかったのに、気付かないところでストレスがかかってたみたいで、それからすぐに同じ歳くらいの女の子の顔が認識できなくなった。なにで判断してるのかわからないんだけど、制服着てたりとか甲高い声とかそういうのかもしれない」
「……だから、私のことわからなかったの?」
「ハロウィンの時でしょ? うん、多分そう。もう本当に焦ったんだよ、あの時」

 衣織はそう言うと疲れた顔で笑う。それからすぐに薄く笑って、美来に視線を移した。

「美来さんの顔がこのまま一生わからなかったらどうしようって」

 少し困ったみたいに、それでいて優しい顔で笑うから、心臓を掴まれた気になって。
 大切な話を聞いているというのに、本当にこの子の事が好きだと、ただ、思い知る。

「実柚里は服装わかりやすいから助かる。すぐにわかるもん。リボンつけて厚底履いてて生意気だったら実柚里。最近時々だけど、実柚里の顔は見える様になってきた」
「だから、実柚里ちゃんが清楚な格好してる時わからなかったんだね」
「そうそう。びっくりした」
「だけど、同じくらいの年の子と付き合ってたよね? 私の目の前でフラれた子」
「うん。付き合ってた。彼女いないって言ったら周りが推すから、断ると不自然かなって思って」
「あの子も顔、見えなかったの?」
「もちろん見えないよ」
「じゃあどうやって付き合ってたの?」
「女の子ってアクセサリープレゼントしたら、毎回つけてくるじゃん」

 この子は本当に策士だ。確かに彼氏からアクセサリーをもらったら女の子は大体デートの時にはつけてくるだろう。

 美来は衣織の顔をまじまじと見た。一体今まで、どれだけの苦悩があったんだろう。

「だから葵さんの会社は楽なんだよ。年上ばっかりだから顔がわからない人はいないもん。ちゃんと俺の事を、実力だけで評価してくれる」

 葵と関係を持つのはもうやめてほしいと言った時、それはできないと言った。『俺はあの場所でやっと、息ができたから』というあの言葉は、ずっと窮屈な場所で生きてきた衣織がやっと見つけた居場所だったからなのだろう。

「だからね、美来さんは顔は劣化するとかいうけど、俺はなんにしても年上のお姉さんしか興味ないんだよ。だって顔がわかんないんだから」

 そう言うと衣織はやっと衣織らしい顔で笑った。

「内緒にしててね。俺の秘密」

 秘密を打ち明けてくれたんだと思うと思わず笑顔になって、それから急に、この子の側にいたいとそんなことを考えた。

「どうして付き合うとか一緒にいるとか言わない私に、秘密を教えてくれるの?」

 この温かい気持ちは何だろう。途方もない安心感から派生した温かい気持ち。
 どんな理由にしても衣織が自分を好きでいてくれていると分かり切っているからこそ感じる気持ちなのだろうという事はわかっていた。

 きっとハルと付き合うという形を取っていなければ、今すぐに衣織と付き合う事を選んだと思う。

「期待してるんだよ。俺が年上しか好きになれない理由を美来さんが知ってくれたら、もしかすると可能性が上がるんじゃないかって。今すぐじゃなくていいから、俺がちゃんとかっこいい大人になったら、美来さんは俺との将来も考えてくれるかもしれないって。だから秘密を投資しとくの」

 そう言うと衣織はまた、衣織らしく笑う。その顔に思わずふっと気が緩んで笑顔が漏れて、同時になぜか、泣きたくなる。

「で。いつ別れる?」

 美来の優しい笑顔をよそに、衣織はあっさりと問いかける。いつ別れる? って、不倫相手じゃないんだからと思いながらも、美来は笑った。

「まだ決めてないよ」
「はやく決めてよ。美来さんが俺と付き合うとか付き合わないとか、もうこの際どうでもいいよ。そんな事より、〝美来さんに彼氏がいる〟って言うのがもう本当に嫌だ。どうにかしたい」

 普通は誰かに彼氏がいる事をどうにかしたいと思っていてもそれを本人の前で直接口にはしないのだが。
 もう衣織は本当に、いつも通り衣織だ。

「もう一回べろべろに酔っぱらっていいよ」
「どうして?」
「美来さんに正当に触る理由になるから」
「衣織くんも彼氏がいる今は触ったらダメだって倫理観を持ってるんだね」
「だってそれで嫌われたらイヤだもん」

 〝イヤだもん〟というのが可愛すぎて。
 もう本当にどうしてこの子はこんなに可愛いのだろうか。ぐずぐずになるまで甘やかしてあげたい気持ちが大爆発しそうだった。

 しかし衣織は油断も隙もない。温かい気持ちになっている美来にキスをしようと身を屈めた。

「ダメだよ」

 美来がそう言うと衣織はふてくされた顔をした。

「あー……もう」

 衣織は濁った声でそう言うと溜息を吐いた。

「どうしたの?」
「……〝待て〟させられる犬って、こんな気持ちなのかなって」

 考える事が可愛い。ダメだ。衣織と離れすぎていて耐性が無くなっている。この子、こんなに可愛かったか? という気持ちを余裕がある笑顔の裏に隠して悶えていた。

「どうしてもダメ?」
「どーしてもダメに決まってんだろ」

 衣織の声に否定したのは、いつの間にか彼の後ろにいるハルだった。
 衣織は舌打ちをすると、一瞬で表情を変えてハルを軽く睨んだ。

「お前、彼氏持ちに手出すって姑息とか思わねーの?」
「俺以外が美来さんの彼氏とかありえないから」

 本当にこの子はどうしてこうあるのだろう。
 そしてハルはハルで明らかに面白がっている。

「さっさと別れてよ。実柚里の事が好きなくせに」
「大人には大人の事情があんだよ」

 ハルはそう言うと「帰んぞー」と言って先を歩いた。
 さすがにいじめ過ぎではと思ったが、ずっとここに居るわけにもいかないので控えめに衣織に手を振った。

「じゃあ……またね、衣織くん」
「美来さん、俺……」

 衣織が俯いて、切羽詰まった声で言うから。
 美来は思わず表情を硬くして衣織の様子を伺った。どうしたのだろう。体調が悪くなったのだろうか。

「……今、人を殺す気持ちも、監禁する人の気持ちもめっちゃわかる」

 不機嫌そうに顔を歪める衣織を見て、この子は本当に一歩間違えれば犯罪者になると確信した。
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