龍帝陛下の身代わり花嫁

プロローグ


 ふわふわと足元が浮いているような感覚。
 最寄駅を出た私は、湿り気を帯びた春の空気を胸いっぱいに吸い込むと、外灯に照らされる桜並木をゆっくりと進んでいく。

「会場の桜も綺麗だったな」

 ぽつりと呟けば、向かいから吹きつけてきた夜風にふわりと髪が舞った。
 社内行事として参加したお花見の帰り道。
 程よく酔っている感覚が心地よく、つい鼻歌でも歌いだしたくなってしまう。

 ――明日からしばらく休みだし、遠回りでもしようかな。

 そう心の中で呟くと、満開の夜桜を見上げながら一歩また一歩とゆっくりと歩を進める。
 今日のはお花見は、私の送別会も兼ねていた。
 今の会社に勤め始めて六年と少し。
 仕事を辞めるきっかけとなったのは、親戚から勧められて受けたお見合いだった。
 幼い頃に交通事故で両親を亡くし、親戚の家を転々としてきたことから、これまで育ててもらった恩もあり、地元の名士だという相手との縁談を断ることができなかった。
 気乗りしないまま受けた縁談は、あれよあれよという間に話が進み、気がつけば結婚が決まっていた。
 地元から離れられないという相手に合わせて今日限りで私は仕事を辞め、来週には地方にある彼の家での花嫁修行がスタートする。

「……実感、湧かないな」

 ぽつりと呟いた言葉は、静けさの中に吸い込まれていく。
 夫となる相手と顔を合わせたのは一度きり。
 物静かな相手とは会話が弾んだ覚えもなく、なぜ私との縁談を受け入れたのかも理解できなかった。
 これから生涯を共にするはずの相手なのに、その顔すら朧げで思い出すこともできない。

「まあ、仕方ないよね。きっとすぐに慣れるはず」

 酔いのせいか、ついつい独り言が溢れてしまうが、私の他には桜が舞うばかりの道なのだから、さして問題もないだろう。
 舞い散る桜の花びらを目で追いながら、ゆっくりと歩を進めていれば、ふと周囲が暗くなったように感じた。
 瞬きを繰り返せば、先程まで光っていた蛍光灯は、なぜか提灯のようなものに変わっている。

――飲み過ぎたかしら……?

 酒に弱いほうではなかったが、今夜はどうも飲み過ぎてしまったらしい。
 ぼんやりと見える幻覚を目で追っていれば、ふと目の前を人影が横切った。
 背の高い男性。
 その人影が目の前を過ぎ去る前に、勢いよくこちらに振り向いた。

「ヨナ様!? 何故ここに!」

 鬼気迫る形相でこちらに詰め寄ってきた彼は、驚愕の表情を浮かべて私の両肩を掴んだ。

「ソジュンとこの地を離れたはずではないのですか!? その御衣装は一体――」

 こちらを覗き込み、混乱した様子で言い連ねている彼は、黒髪に彫りの深い顔立ち。
 どこか異国めいた雰囲気を感じるのは、その衣服のせいだろうか。
 黒地の布を正面で重ね合わせ、袴を合わせたような衣装に、金属板に装飾が入っているような胸当てをしている。
 和装のように見えるのに足元はブーツと、どうにも和洋折衷でチグハグな印象を受けた。

――コスプレかしら?

 肩を掴まれながらも、しげしげと相手の姿を伺っていれば、深い青色の双眸にずいと覗き込まれる。

「ヨナ様、私の質問に――」
「あの!」

 あまりに近い距離に背中を反りながら、小さく咳払いをする。

「多分、人違いだと思います」
「そんなまさか」

 再び間近に迫ってきた相手の勢いに一歩下がりながらも、なんとか拳を握り、真っ直ぐに相手を見上げた。

「私は春香《はるか》と言います」

 はっきりと言い切った私の声に、相手は怪訝な表情を浮かべる。
 しばらくじっとこちらを観察していたものの、何度か目を瞬くと、その目を大きく見開いた。

「……確かにヨナ様によく似ていらっしゃるが、よく見れば別人だ」
「あはは、わかってもらえてよかったです。よく人違いされるので」

 実際、これまでも人違いで声をかけられることはよくあった。
 暗い夜道では、尚更わかりにくかったのだろう。
 今回はちょっと相手が特殊だったが、いつもの人違いだったと平常心を取り戻して小さく会釈をする。
 どうにもお酒が回っているようだから、そろそろ帰宅しよう。

「それでは――」
「お待ちください!」

 踵を返そうとした私の手首を、彼の手が掴んだ。
 その強い力に驚いて顔を上げれば、こちらを覗き込む真剣な表情に思わず目を瞬く。

「これも何かの縁、どうか私達にご協力いただけないだろうか!」

 その場で膝を折り、額を私の甲に寄せる。

「えっあの――」

 突然の行動に混乱していれば、顔を上げた彼の真剣な眼差しがこちらを見据えた。

「どうか我が主――紅国のヨナ姫の身代わりとして『龍帝陛下の花嫁』となっていただきたい」
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