龍帝陛下の身代わり花嫁
…私の事情
彼の隣に並び立つように欄干の側に寄ると、湖面には風に散った花弁が波に揺れていた。
侍女の二人に着付けてもらったドレスの裾を握りしめて、ゆっくりと口を開く。
「……私は、幼い頃に交通事故で両親を亡くしました。四歳のときの話です」
そのときの出来事は、未だに夢に見て飛び起きることもある。
酷く曖昧な記憶になっているにもかかわらず、燃えるような身体の痛みと手足が動かなくなっていく恐怖だけが鮮明に残っていた。
「当時のことはほとんど覚えていないのですが、私自身も酷い状況だったそうで、病院で目を開けたとき親戚から口々に奇跡だと言われました。……両親は即死だったそうです」
周囲から両親の死を告げられても現実味がなかったのは、病院にいるという非日常感がそうさせていたのかもしれない。
家に戻れば温かく迎えてくれる母と、日が暮れた頃に帰ってくる父と会える気がしていた。
「退院した頃には、葬儀や相続などが全て終わった後でした。誰もいない自宅に幼い私一人を戻すことはできず、私は祖父母に預けられました」
両親と共に何度も訪れていた祖父母宅は馴染み深い場所で、初めはいつものお泊りに来たような気分だった。
「しばらくして祖母が私を見ることができなくなったということで、別の親戚に預けられることになりました。そこからなぜか預け先で不幸が続き、私は親族の家を転々とすることになりました」
祖母の転倒の後に叔父の事故が続き、いつの間にか私は身内の不幸と共に家を追い出される存在となっていた。
それでも酷い仕打ちを受けなかったのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。
ふと視線を上げれば、風に揺れる桜の枝が目に映る。
あの美しい桜も、風を受ければ儚く湖面に散ってしまうのだろう。
「そうしている内に、いつの間にか相手の顔色を窺い人に嫌われないよう振る舞うようになっていました。両親がいなくなった今、家族でもない私に無償の愛を注いでくれる相手なんていないのだから当り前です。ただ、それに気付いた瞬間、もっと恐ろしいことに気付きました」
触れていた欄干を、ぐっと握りしめる。
「両親と共に過ごした幸せな時間は、私の記憶にしか残っていないんです」
熱を出した私を心配そうに覗き込んでいた母の姿も、私を抱き上げてくれた父のことも、私達家族の思い出を知っているのは私の他に誰もいない。
「もし私が死んでしまったら、両親の笑顔を知っている人が誰もいなくなってしまうんです。世界から、大好きな両親が忘れ去られてしまうんです」
思わず震えそうになる声を抑え込むように唇を噛みしめる。
「だから、私は――私だけは絶対に死ぬもんかと思いました」
大切な両親との思い出を、私だけが知っている。
『春香は私達の宝物よ』
『春香がいつまでも笑顔で過ごせるようにってお願いごとをしていたんだ』
優しかった両親。
両親からどれほど愛されていたのかを実感したのは、二人を失ってからだった。
私が大人になった姿を見たいと言っていた二人に、今の姿を見せることはできない。
それでも、どんなことがあっても、私は両親との思い出を守るために、自分の命を粗末にすることはできない。
「私は一人でもこうして生きていることで、大好きな両親との記憶守っているんです」
私の意見は、死を羨むレイゼン様にとって耳障りなものかもしれない。
いつもだったら、彼の顔色を窺って決して口にすることはなかっただろう。
ただ、親兄弟に先立たれ一人残されたという彼の境遇に、自分を重ねてつい口を挟んでしまった。
胸中に渦巻いていた想いを吐き出すと、頬に当たる風が妙に涼しく感じる。
頭に血が上っていたのか、随分と熱くなっていたらしい。
ようやく冷静さを取り戻して隣を伺えば、こちらの視線に気付いた彼は、その黄金色の瞳を細めた。
「すみません、一方的に私の価値観を語ってしまいました」
謝罪を口にしながら頭を下げれば、彼の手が肩に触れる。
その感触に顔を上げれば、柔らかく微笑む彼がこちらを覗き込んでいた。
「己の考えと違う意見を口にしてもらえるのは、気分の良いことだな」
彼の言葉を理解する前に、柔らかなものが額に触れる。
何が起こったかわからず目を瞬いていた私は、それが口付けだと気付いた瞬間、全身から火を噴くように熱くなった。
「な、なななな」
「はは、花嫁が額への口付けくらいでそれほどに動揺してはならんぞ」
「さ、先程取引は暇つぶしだったと――」
「たとえ暇つぶしだろうと別れる最後の日まで、そなたは私の花嫁だ。最後の日まで私を楽しませておくれ」
「は、はぁ……」
腑に落ちないままながらも、確かに現状私が彼の花嫁であることは事実だ。
無条件に私を元の世界に返してくれると言う彼には恩返ししたいし、なるべくならその希望は叶えたい。
それが、花嫁として彼を楽しませることだというならば、できる範囲で努力したいと思う。
「できる範囲で、頑張ります」
「はは、どこまでが可能な範囲なのか試すのも楽しそうだ」
「か、からかってますね!?」
飄々とした様子で楽しそうな笑い声を上げる彼に、先程までの悲壮感はない。
ほっと胸を撫で下ろしながらも、彼の視線の先を追う。
彼が見上げた先の夜空には、煌々と輝く月が浮かんでいた。