龍帝陛下の身代わり花嫁

…本当の望み


 長い廊下を抜けて広間に出る。
 渡り廊下を駆け足で進み、自分でもわからないまま昨日彼と話した中庭へ向かった。
 棟と棟とを結ぶ廊下を渡り開けた視界の中、泉の中央に浮かぶ東屋にその姿を見つける。
 青みがかった黒い髪に、いつものゆったりとした衣装に身を包んだ彼が、湖面を眺めるようにそこに佇んでいた。

「レイゼン様!」

 思わずそう叫ぶと、東屋へ続く桟橋へと向かっていく。
 息を切らしながらようやくたどり着いた私に、彼は穏やかな笑みを浮かべた。

「昨日ぶりだな。明日の支度はもう終えたのか?」

 欄干に背を持たれるように立つ彼を見上げる。
 思えばレイゼン様は、いつでも笑顔を絶やさなかった。
 異世界に迷い込んで、右も左もわからない状態で『花嫁』となるように言ってきた彼を、初めのうちは警戒していたように思う。
 あっという間に心の内に踏み込まれ、気が付けば、その笑顔に安堵を覚えるようになっていた。

「私は、貴方のことが好きです!」

 私の言葉に、向かいの彼はその瞳を瞬かせる。
 驚いたように目を見開いたのは一瞬で、次の瞬間にはいつも通りの笑みを浮かべていた。

「はは、嬉しいことを言ってくれる」
「私は本気です。レイゼン様のことが好きだから、貴方の側を離れたくないんです」

 レイゼン様は私のことを大切に思ってくれている。
 だからこそ、私を元の世界に帰そうとしているのだ。
 それならば私は、彼への気持ちと覚悟を伝えればいい。

「……そなたの気持ちは嬉しく思う。だが――」

 彼の首元を掴み、その言葉を遮るように唇を重ねる。
 少し乾いた唇から伝わってくるひんやりとした温度を感じながら、ゆっくりと瞼を開いた。
 目の前には驚きに目を丸くするレイゼン様がいる。

「私の幸せは貴方の側にいることです。元の世界に戻って、顔も思い出せない誰かの元に嫁ぐことではありません」

 自分の想いを真っ直ぐ言葉にする。
 レイゼン様の役に立ちたいとか、恩返しをしたいだとか、まどろっこしい理由づけなんて必要ない。
 私は私の意思でレイゼン様の側にいたいのだ。

「私を貴方の花嫁にしてください」

 想いを告げた相手は、ただただその目を丸くして、こちらを見つめている。
 私を大切に思う気持ちから、元の世界に帰すことを優先しようとしてくれたレイゼン様。
 神龍族に大切な相手ほど遠ざけるという習性があるのならば、私から踏み込む他はない。

「昨日、レイゼン様は私のことを愛しいと思っていると言ってくれました」

 掴んだままの彼の襟元をぐっと握りしめる。

「それならば手放さないでください。私は貴方の側にいたい。レイゼン様から、ここにいてもいいと許可を頂けるまで、絶対にこの手を放しませんから」

 目の前の彼を真っ直ぐに相手を見あげれば、広い中庭を春の風が吹き抜けた。
 柔らかなその風に、こちらを見下ろしていたレイゼン様がうっすらとその目を細める。

「……別の世界に馴染んだ『時空の迷い子』は帰り方を忘れてしまう。いつか帰りたいと思っても、戻ることは叶わぬぞ」
「問題ありません」

 レイゼン様の花嫁になりたいと決めたい以上、覚悟の上だ。

「私の花嫁となることは、私と時を共有することになる。これから、永遠にも感じられる悠久のときを生きることになる」
「わかっています」
「今そなたの周囲にいる者達も、いつか必ず我々を置いて先に逝く。大切に思っていた者達を見送る覚悟があるか?」
「覚悟の上です」

 同じ時間を生きられない私達は、周囲から取り残されるように、大切な人を見送っていくことになる。
 それは身を裂かれるほどに辛いことかもしれないが、それでもレイゼン様の手を放すよりはましだ。

「神龍族の花嫁ほど、重い物を背負わせられるものはおらぬ」

 そう口にした彼は、初めて困ったようにその顔を歪めた。

「それでも、そなたは私の花嫁となりたいと言うのか?」

 初めて見たその表情に、ようやく本心を見せてもらえたようで、ふっと笑みが零れる。

「もちろんです」

 大きく頷き返して、彼の背に腕を回した。
 胸元に耳をあてれば、ゆっくりとした鼓動が響いてくる。

「私は貴方以外の花嫁になるつもりはありません」

 レイゼン様の花嫁になりたい。
 それが叶うのであれは、元の世界に未練などなかった。

「……一時の暇つぶしだと、そう思うておったのにな」

 ぽつりと聞こえた呟きと同時に、彼の腕が背中に回される。

「そなたに出会い、触れて言葉を交わして、誰かと関わることの喜びを知ってしまった。くるくると変わる愛らしい表情も、生きることに懸命なその意思も、全てが愛おしく、眩しかった」

 抱きしめられるように回された腕の温もりに、思わず瞳を閉じた。

「そなたをこの孤独の中に巻き込んでしまうとわかっていたから、必死でこの気持ちに蓋をしていたのだ」

 まるで迷い子のような不安そうな声に、思わず背中に回した腕に力を込めた。

「私は、レイゼン様が好きです」

 いつも浮かべている穏やかな笑顔も、からかったときに上げる笑い声も、たまに見せる寂しそうな横顔も、全てが愛しい彼の一面だ。

「生きるのが辛いときは、私が側で支えます。寂しいと感じたときは、貴方の孤独に寄り添わせてください」

 彼の花嫁になれば、辛いときに側にいて抱きしめてあげられる。
 言葉を交わせば、その寂しさだって分け合えるかもしれない。
 何かを恐れているような彼を見上げて、にっこりと微笑みかけた。

「私を、貴方の花嫁にしてくださいませんか?」

 私の言葉に、彼は大きく目を見開く。
 その黄金色の瞳から、一滴の雫が零れた。
 ぱたと床に零れたそれは、板張りの床にじわりと広がっていく。

「私と共に、悠久のときを生きてくれるか」

 私の頬に、彼の指先が触れる。
 不安そうに眉尻を下げる彼を見上げて、にっこりと微笑みかけた。

「いつまでも、レイゼン様のお側に」

 そう告げた私の唇を、彼のそれが塞ぐ。
 彼の腕に抱きしめられた私を隠すように、強い風が舞い起こり、周囲は薄桃色の花弁に包まれたのだった。

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