龍帝陛下の身代わり花嫁
…選択肢
「ハルカ様」
「セジュン、さん」
数日前の夜に会って以来のその姿に、息を呑む。
こちらを呆然と見つめている彼は、随分と顔色が悪い様子だった。
おぼつかない足取りでこちらに歩み寄る姿に慌てて腰を浮かせば、欄干を掴んだ彼がひらりと渡り廊下に登る。
倒れ込むようなことがなかったことに胸を撫で下ろしながらも、その顔色があまりに悪いことが気にかかった。
「セジュンさん、大丈夫ですか? 体調がすぐれないとか……」
私の声に、彼は虚ろな様子でゆっくりとその顔を上げる。
「間に合ってよかった……」
ぽつりと溢した彼は、仕切り布の前に膝をつくと勢いよく頭を床に伏せた。
「貴方を守ると言ったのに、私が不甲斐無いばかりにハルカ様にお辛い思いをさせて申し訳ありませんでした」
突然の謝罪に、ただただ目を瞬く。
「私が来たからにはもう大丈夫です。さあ、ここから逃げ出しましょう」
深々と頭を下げていた彼は、そう口にするとその顔に笑みを浮かべた。
その言葉に、初日以降彼に何も伝えられていなかったことを思い出す。
私がここの邸に来たのは、ヨナ姫達を無事に逃がすために『身代わり花嫁』を務めることになったからだ。
あれから彼には、ヨナ姫の逃亡が知られていることも、私の正体が知られていることも伝えられていない。
ましてや、今の私が自ら望んでこの場に立っていることなど彼は知る由もないだろう。
ちゃんと説明をしなくてはと思いつつも、一体どこから話すべきかと頭を抱える。
黙り込んだ私をどう思ったのか、こちらを見つめていた彼はもどかしそうに唇を噛んだ。
「これまで一度も花嫁を迎えて来なかったからと、正直油断していました。まさか面会を規制されるとは想像しておらず、お傍から離れることになり、これまで苦しい思いをさせてしまい誠に申し訳ございませんでした」
再び深々と頭を下げる彼に、慌てて声を上げる。
「いえ、そんなことは――」
「ハルカ様のおかげで、十分な時間を稼ぐことができました。この数日間、常に亜人達の目がありなかなか抜け出せなかったのですが、なぜか今日は見張りの数も少なく隙を見て抜け出してきました! 私が来たからには、もう大丈夫です」
そう告げたセジュンさんは、晴れやかな笑みを浮かべた。
「さあ、ここから逃げ出しましょう」
片膝をつき、まるで物語に出てくる騎士のように手を差し伸べるその姿に、申し訳なさから顔が強張ってしまう。
彼の見張りが少なかったのは、恐らく今日の結婚式の準備のためだ。
そして、私にはここから逃げ出す意思はなかった。
「あ、あの……」
「何も心配されることはありません。さあ、私と共に逃げましょう」
そう告げるセジュンさんは、迷いなくその手を伸ばす。
セジュンさんは、この世界に迷い込んで初めて出会った人だ。
弟と駆け落ちをしたヨナ姫を逃がすため、私に彼女の身代わりになってほしいと懇願してきた人。
その勢いに流されるようにして、龍帝陛下の花嫁としてこの邸を訪れたのは、つい一週間前のことだった。
そのときは、ヨナ姫に懸命に尽くそうとする彼の姿に協力したいと思っていたが、この一週間の間に自分の立場は大きく変わってしまった。
今の私は、彼に頼まれた『身代わり花嫁』ではなく、自ら望んで『龍帝陛下の花嫁』になろうとしている。
そんな私が、彼と共に逃げるという選択をするわけにはいかなかった。
「私は、ここに残ります」