魔術師団長に、娶られました。

溺愛と執着と

 ――今日は帰りが遅くなりそうなので、待たないで寝てください

 シェーラの仕事が終わる頃合いを狙い、廊下でアーロンから声をかけた。
 特に不審がる様子もなく、シェーラは「わかりました」と言って笑った。
 その屈託の無さを前にして、アーロンの胸はズキリと痛んだ。

 別れてすれ違い、互いに別方向に進んでから、アーロンは立ち止まって肩越しに振り返る。
 遠ざかるシェーラの背中が、角を曲がって視界から消えるまで見届けた。
 追いかけることも声をかけることもできずに終わり、前に向き直ると重い足取りで歩き出した。

 そのときは、まだ迷っていた。
 今からでも引き返して「意外に早く終わりました」と声をかけ、一緒に帰ろうか。
 それができなくても、適当なところで仕事は切り上げて遅くなりすぎないうちに帰宅しようか。

(シェーラさんの性格上、待たなくても良いと言っても、待つだろう……。それがわかっているのだから、待たせるべきじゃない)

 おそらくこうなるだろうという未来の推測ができて、自分がそれにどう対処すべきかも見えている。
 逆に言えば、そうしなかったときに、何かが壊れるということまでわかっているのだ。
 破滅願望があるわけではないなら、「やらない方が良いこと」は決して選んではいけない。
 当たり前過ぎる結論。

 それでも、アーロンはそのとき「選ぶべき道」を選べなかった。
 執務室に戻り、期日に余裕のある書類に目を通す。時間の流れは、ひどくゆっくりだった。
 やがてその空気に自分で耐えきれなくなり、椅子から立ち上がる。
 残業しないように余裕を持って中断していた魔法の研究のため、魔法の実践用の研究室へ向かおうとする。
 そのとき、執務室のドアがノックをされた。

「どうぞ」
「団長、まだいらっしゃったんですか? 窓から光が見えて、消し忘れかと確認しにきたんです」

 失礼します、とドアを開けて部屋に入ってきたのは、魔術師団の若手ユリウス。
 困惑した様子で説明をしてくる。
 その後ろから、ヴェロニカが部屋に入らぬまま顔を出し、尋ねてきた。

「帰らないの?」

 声に滲む、咎める響き。
 アーロンは表情を変えぬように微笑み、「もう少し」と答えた。
 途端、ヴェロニカが柳眉を険しくして睨みつけてくる。

「そこまで急ぎの件は無いと思うのだけど。帰りにくい理由でもあるの?」

 鋭い。
 だが、認めるつもりのないアーロンは「ないですよ」と平淡な声で告げた。
 顔色は変わっていなかったはずだが、ヴェロニカはひっかかりを覚えたような顔で首を傾げる。

「新婚早々朝帰りする気? まさかとは思うけど、寝室に入れてもらってないの?」
「そんなこと、ありません」

 それ以上危険な憶測をされぬよう、すかさず口を挟んだ。
 しかしそこからうまく「何気ない」会話につなげられず、アーロンはゆっくりとうなだれた。

「……わぁ。団長が弱ってる……」

 ユリウスが、驚いたように正直なところを口にした。
 会話が長引くと覚悟したのか、ヴェロニカが部屋に足を踏み入れて、後ろ手にドアを閉めた。

「らしくないから、一応聞いておくけど。シェーラ副団長とは、うまくいってないの? 昼間は仲良さそうに見えたわ」

 ごまかそうとして、ごまかしきれずに、アーロンは唇をかみしめた。
 目を瞑り、執務机に腰を預けて座るようによりかかり、深い溜め息をつく。

「彼女のことは、そばにいると何を置いても構いたくなる。俺以外の誰かにいじられていると、かばいたくなる。場合によっては、彼女に止められても相手へやり返してしまいそうになる……。俺は彼女のことが好きだし、夫婦になったのだからそれは当然だと思っていたけど、本当に当然かな?」

「と、言うと?」

「感情の流れとして、おかしくないかなって。俺は愛情だと思っていたけど、彼女の意思に反しているとしたら、それはもう愛じゃなくて、所有欲なんじゃないか? 自分の()()に手を出されるのが嫌って意地になっているだけで、彼女を人間として尊重している意味にはならないんじゃないか? そう考えだしたら……なんというか」

 自信がなくなった、のだ。

(情けない顔をしているだろう)

 きょとんとしたユリウスと、はっきり心配顔になっているヴェロニカを前に、居た堪れない思いでアーロンは横を向いた。
 幼馴染で、長年アーロンのそばにいたヴェロニカは、ためらいながらも話し始めた。

「結婚していない私が言っても、重みがないかもしれないけれど。結婚という制度や、夫婦という関係性には大なり小なり『所有欲』は付随するんじゃないかしら。男女ともに『相手は自分のものであり、特別に便宜を図る関係にある』と宣言するんだもの。守りたくなるのも、嫉妬してしまうのも、全部『当然』で良いんじゃないの?」

 ヴェロニカらしい、わきまえた発言だった。
 この場合のわきまえているとは、制度への一定の理解及び、制度にまつわる功罪を受け入れる覚悟。
 おそらく、ヴェロニカは自分がその立場になったら、まずはそう考えて現実的に受け止めるのだろう、と思われた。

(俺は、急かし過ぎたのかもしれない。騎士団と魔術師団のためと、彼女の真面目さにつけこんで)

 結果的に納得して結婚しているとはいえ、結婚後に見えてきた現実に、シェーラは戸惑っているように見える。それがわかるだけに、アーロンとしてはつい、引き際まで考えてしまうのだ。

「ヴェロニカが言うそれを、両方が了解しているなら何も問題は無いのかもしれないけれど、片側が『押し付けられている』とか、『重荷』に感じてしまうのであれば、二人でいることは負担にしかならない」

「それで帰宅拒否? そういうの、後々まで溜め込まないで、さっさと二人で話し合うに限るわよ?」

 ヴェロニカの忠告は、もっともな内容だった。
 アーロンは、落ち込んでいない顔をして帰宅して、自分の正直な気持ちをシェーラに対して真摯に打ち明ける。二人の間のずれは即座に修正して、常に風通しの良い相互理解の関係を築くために……。

(それが正しいのはわかるんだけど、いつでも正しい行動を取れるわけじゃない)

 今日のアーロンは、「落ち込んでいない顔をすること」がもう、無理なのだ。
 自分の愛情と信じるものが、シェーラにとっては重くてしんどいものなのだろうと自覚した以上、落ち込まずにはいられない。
 そして、そんな自分の弱さでシェーラに気を使わせてしまうのもまた、アーロンには耐え難かった。

「俺にも時間が必要なんだ。甘えだとわかっているつもりだが、少し気持ちの整理をつけないと」

 相手が気を許した間柄のヴェロニカということもあり、弱音が漏れた。
 アーロンが、そこまで素直になることが滅多にないと知っているヴェロニカは、すぐに深追いを中止したようだった。

「アーロンはアーロンで最近、気を使って帰宅も早めにしていたけど、以前はそんな規則正しい生活まったくしていなかったものね。夫婦の問題はいったん横に置いておいて、独身時代みたいに研究に没頭して朝を迎えるみたいな無茶も、たまにはしたいということかしら」

「そうだな。そこは俺も妻に遠慮している部分ではあるかな。もちろん、シェーラさんと一緒にいたい気持ちは強かったし、仕事をセーブするのは苦ではなかったけど、時間を忘れるほど研究に打ち込んでみたいというのは、たしかにある」

 伴侶を得ることにより、幾ばくかの自由を失うことは、自分が望んだ結果だからと考えないようにしていた。その一方で、研究の進みが以前ほどではないのは気になっていたのだ。
 その面ではやはり、どうしても不自由は感じていた。
 ふう、とヴェロニカが大きく息をついた。

「それなら、当事者以外が外側からとやかく言うのもよくないわね。ほどほどで帰りなさいよ」
「ありがとう。そうする」

 偽らざる気持ちだった。
 遅くなると事前に宣言をしているし、待つ必要もないとはっきり伝えている。

(シェーラさんは待ちそうだから、日付が変わるまでには帰ろう)

 そのときは、本当にそう考えていた。

「もし、残って研究なさるのでしたら、助手として使っていただけませんか? 団長の実技を見る機会を逃したくないんです!」

 それまで口を挟まないでいたユリウスが、身を乗り出すようにして会話に入り込んできた。
 一瞬、断り文句を考えたアーロンであったが、この先若手とこういった時間を持つことは確実に減るだろうと思うと、無下にすることはできなかった。
 にこりと笑いかけ「いいよ」と参加を認める。

「ありがとうございます! がんばります!」

 若手ルーキーのこの一言が、アーロンの心に火をつけた。
 ヴェロニカはそこで帰途についたが、残った二人はここぞとばかりに試したかった魔法の実践等に情熱を注いでしまった。

 気づいたときには夜はとうに明け、朝を迎えていた。
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