魔術師団長に、娶られました。

不調に気づく

 調査区域であるアンデイヴ山まで、全員馬に乗って隊列を組み、向かう。
 普段であればまったく負担に感じないそれが、寝不足の体にはこたえた。
 市街地を過ぎて小休憩となったとき、シェーラは木に背を預けてもたれかかり、目を閉ざしてしまう。

(こんなに体調に出てしまうものなんだな……。めまいがする)

 これまで仕事第一できただけに、健康にはかなり気を使って生きてきた。
 不調は失敗に直結し、ひとつ間違えば落命へと至る。
 そして、命を落とすのが自分とは限らない。
 責任ある地位につき、部下の命も預かる身ともなれば、体が本調子ではないとか、判断力が鈍っているなどというわけにはいかないのに。

「副団長、顔色が白いです。なんというか、青いとか悪いとか通り越して真っ白なんですけど、具合悪いですよね?」

 声に目を開ければ、木漏れ日を浴びたエリクが、水筒からコップに水を注いで差し出してきていた。

「…………悪い」

 シェーラは、くぐもった声で短く答える。
 「あってはならない」という意味で、否定すべきという考えがかすめないでもなかった。だが、隠しきれていない時点で往生際の悪い嘘はつくべきでない、と思い直して正直に認める。
 コップを受け取り、ひといきに飲み干して告げた。

「作戦終了まではなんとかもたせる。出発前に、ここまで悪くなるとわかっていたら作戦の変更も考えたんだけど、自分でもわからなくて」

 口にしてしまうと、いかにも幼稚な発言に思えて、シェーラは自分に呆れてしまった。

(わからなかったわけじゃない。このまま出るのはまずいかもって、気づいていたはずだ)

 その直感を無視し、誰にも相談しないまま出てきたのは、どこかで「結婚しても変わらない自分」を貫かねば、という意地があったとしか考えられない。
 難しい顔をして聞いていたエリクは、小さくうなずく。

「危険度が低い任務だけに、多少の不調くらいならこなせてしまう可能性の方が高いわけですから、当日になって他の人に代わってもらう判断はしづらいと思います。副団長の代わりは、いませんから」
 
「少し寝れば、マシになると思う」

 コップを返し、シェーラは再び目を瞑る。
 いまは、一刻も早く体力の回復に努めねば。

(結婚前の私は、自己管理が甘くて体調を崩している、ということはほぼなかった。「自分にも他人にも厳しく」……だけど、まさか結婚早々でこんなことになるなんて。自分の代わりはいないなんて、自惚れていたわけではないのに)

 おそらくこの不調は、寝不足のせいだけではない。
 いくら事前に申告があったとはいえ、アーロンが一晩帰らず、出立前に顔を合わせなかったことが思った以上に精神的なダメージとなっている。

 思えば、シェーラは自分が選んだ仕事に適性があり、なおかつこれまで人間関係にもさほどの問題を抱えることがなくやってきた。
 やっかみやトラブルの類はあったが、戦闘職だけに「殴られたら殴り返す」くらいに肝はすわっているので、自分でどうにかしてきたのだ。

 一方で、私生活でも波風立たぬ生き方をしてきた。
 それこそ失恋で一晩泣き通して目を腫らすだとか、あるいは付き合い始めの彼と会う約束が気になって集中力が落ちる、などということがなかった。アーロンとの婚約期間は若干その傾向はあったが、うまく隠し通してきたつもりであった。

 つまり、メンタル由来の不調というものに、耐性が低い。

 それでも今までは、気になることがあってもいざ仕事を始めれば、すっと忘れて集中できていた。
 仕事より重い私生活が、なかったのである。

(今回うまくいかないのは、いくら私が気持ちを切り替えたとしても、何も解決しないからだ。アーロン様の気持ちがわからない以上、アーロン様と会った瞬間、後回しにした問題が全部降り掛かってくる……。私はそのことを恐れているし、割り切れてもいない)

 頭ではわかっているのだ。「相手がいる問題」が、ひとりでは解決しえないのは当たり前なのだと。
 わかってはいても、「解決できない」ことにはストレスを感じる。

 ひとりでいるときより、結婚してふたりになった後の方が、人生の難易度が上がるのなら。
 なんのために結婚したのかと。
 結婚したら、ひとりでいるときよりずっと人生が良くなるべきで、シェーラにとって人生が良くなるというのは「仕事がきちんとまっとうできること」以外にない。なかったはずなのだ。
 しかも、もともと騎士団と魔術士団絡みで始まった関係なのだから、アーロンだってそこはきちんとわかっているべきだと思う。
 つまり、結婚が仕事に影を落としてはならないと。
 そこまで考えて、シェーラは深く息を吐き出した。

(悪い方へ悪い方へ考えている。アーロン様が昨日お帰りにならなかったのも、仕事だ。一緒に過ごすようになって、早く帰ってくるのが当たり前のように感じていただけで、おそらく本来のアーロン様は徹夜くらい普通なのかもしれない。それなのに、帰ってこなかったとか、そのせいで自分の仕事が不調にみまわれていると考えるのは、完全に八つ当たりで。勝手に起きて待っていたのは私だ。帰ってきてほしくて……)

 頭の中がぐしゃぐしゃになる。
 はやく仕事のすべてを追えて、休みたい。
 ベッドに飛び込んで、何もかも忘れてぐっすり寝てしまいたい。
 願った瞬間、くらりと眠気に襲われて「今はだめだ」とシェーラは目をこじ開ける。
 かすんだ視界。
 正面に、ひとりの魔術士が立っていた。

「シェーラ副団長。そろそろ出発でよろしいでしょうか」

 青い髪に、金の瞳の女性。リルだ。
 その目に敵意が閃くのを見て、シェーラは即座に居住まいを正す。

(私は彼女に、上司としてきつい叱責をした。隙を見せるわけにはいかない)

 ちりちり、と嫌な感覚が首筋を走り抜け、霞がかっていた頭が不意に晴れた。
 戦士としての直感が、敵意を受け止めて冴えていく。
 完璧に仕事をやり遂げてみせる。無様な失態などさらすものか。
 その緊張感は、アーロンをぐずぐずと責めてしまいそうな思考を追いやるのに、実に適していた。
 シェーラはにこりと微笑みかけて、返事をした。

「はい。それでは、この先も気をつけて進みましょう」

 それを受けて、リルもまた口の端を吊り上げるようにして、笑った。

「ええ。警戒を怠らないように、注意して参ります」

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