EASY GAME-ダメ男製造機と完璧上司の恋愛イニシアチブ争奪戦ー

fight.37

 お盆休みの間、細々とした準備を始めた。
 転居や住民票の移動は、皮肉にも慣れているから、簡単にできる。
 銀行は、どこでも利用できるし、身ひとつで動けるだろう。
 退職してから、職を探すのは簡単じゃないだろうけれど――アルバイトや、パートでも良い。
 自分ひとり、細々と暮らしていければ――……。

 仕事だけは心残りだけれど、曽根さんのように、引き継いでくれる人がいくらでもいる。
 ――あたしじゃなきゃいけない理由なんて無い。
 でも、少なくとも、今の仕事の詳細は、きちんと引継ぎを残しておかないと。 
 そんな事をつらつらと考えながら、持っていたメモ用紙に、思い出せる限りの仕事と対応を書きなぐっていた。
 すると、不意に、その手が掴まれ、あたしは顔を上げる。

「……高根さん?」

「……み、美里さん」

「お、お帰りなさい。――もう、そんな時間でしたか」

 カーテンの隙間から見える景色は未だに明るいが、スマホの時計はもう七時を過ぎていた。
 彼は、お盆休みもいろいろ仕事を抱えているらしく、普通に出勤していたのだ。
 あたしは、そっと、掴まれたままの彼の手を離そうとするが、逆に力を込められる。
「あ、あの、高根さん」
「――……何を、しているんですか」
「え?」
「……これ……仕事のマニュアルか何かですよね」
「……え、あの……」
 どうにかごまかそうとするが、高根さんは、あたしを真っ直ぐ見つめて、目を逸らしてくれない。

「――……どこに、行く気ですか」

 その問いかけに、唇を噛み、うつむく。
「美里さん」
 いつの間にか、名前で呼ぶのが当然な事になっている。
「――……仕事、辞めるんですか」
 首を振れない。
 否定もできないのは――つまり、肯定と同じ。
 すると、今までとは比べ物にならない力で引き寄せられ、きつく抱き締められた。

「――……ここを、出て行く気……ですか……?」

 行動とは真逆の弱々しい声に、あたしは、かすかにうなづいた。

「……へ、部屋……見つかりそうにないですし……いつまでも、お世話になる訳には……」

「構いません」

「でも」

「――……ここを出て……どこに行くんですか」

 あくまで逃がしてくれないらしい。

「――……わかりません。……ただ、もう、遠い場所に行った方が……気が楽になるかもしれないから……」

 朝日さんと毎日顔を合わせる度に、胸が悲鳴を上げる。
 そんな事を――いつまで続ければ、あたしは自由になれる?

 ……彼が、結婚した時――あたしは、笑顔で祝福できる?


 ――……何度、繰り返し考えても――結論は同じだ。


 そんなコト、できるはず、ない。


「美里さん」
 耳元で呼ばれる声に、心は違うと叫ぶ。
「――……辞めるなら……僕と住みましょう」
「え」
「……このまま、あなたを手放せるはず、無いじゃないですか」
 高根さんは、そう言って、あたしにキスをする。
 少し離し、そして、今度は――深く。
 そして、唇を離すと、彼は、いつもとは、まったく別人のような表情を見せた。
 あたしは、それに少しだけ動揺する。

「――……た、高根……さん……」

「あなたを待っているとは言ったけれど――僕の前から消えるというのなら、話は別です」

「……通報、するなら、してください」

 言いながら、あたしの手を取り、深くキスを続ける。
 絡まる舌に、身体が反応してしまうのを、彼は見逃してはくれない。
 でも――ここで、応える訳にはいかない……。

「――逃げないで……お願いです……」

「高根さん――」

 首筋に強く吸い付かれ、思わず跳ね上がる。
 それを押さえつけると、彼は――泣きそうな表情(かお)であたしにすがった。

「――……僕は……あなたと、家庭を作りたいんです」

 あたしは、その言葉に硬直する。

 ――そうだ……この人は……。

 あたしと――似ているんだ……。
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