あやかし猫社長は契約花嫁を逃さない
秘書生活一日め、退勤。
犬島の運転するポルシェの後部座席で、龍子は青い顔をして俯いていた。
はあ、と溜息をついたところで、助手席で犬島と会話をしていた猫宮が気づき、振り返る。
「疲れたのか」
目を瞑って聞けば、この上なく麗しい美声。
(これで、目を開けてそこにいるのがお猫様だったら言うことないんだけど……)
人間型の猫宮には聞かせられない本音を押し隠し、龍子は顔を上げる。
「高級車、後部座席狭いんですね……。高いのに乗り降りしにくくて、座り心地悪いってどういうことですかこの車」
「見た目にステータスガン振りしてるんだ」
「見た目になんの価値があるっていうんですか。車なら見た目より安全性と乗り心地、人間なら見た目より中身、猫宮社長なら人間より猫」
「最後のはなんだ。余計なことを言ってるぞ」
怒られるかと思ったか、一言咎めただけで、猫宮は前に向き直った。
窓の外は、夜の闇に煌めく光の流れ行く首都高。
なめらかなハンドルさばきで運転しつつ、犬島が控えめに口を挟む。
「社長が猫のときは、こういう誰が乗っているかよくわからない車、使い勝手が良いんですよ。猫なら後部座席でも狭くないですし。昨日はこたつがあったので、違う車を使いましたが」
「ああ……、社用車とプライベート用と、会社と自宅に複数あるんですよね。高級車ばかり」
秘書として得た知識を呟いて、龍子は苦笑した。
(社長が猫のときは運転手も頼めないから、運転は秘書……って聞いたけど。秘書さんの仕事もやっぱりすごく大変)
突然の秘書抜擢。そして異動。
前触れのなかった人事に社内がほのかにざわついているのを肌で感じつつ、龍子は朝から社長室に隣接した秘書室での仕事をスタートさせた。
手ほどきは犬島で、社長のスケジュール管理など細かい説明や、電話の取り方等初歩的なところから確認があった。そのやりとりの中で、場合によっては運転も業務に含まれる、と説明を受けたのだ。
免許は持っていてもペーパーで、東京の道路を運転したことがない龍子はそれだけで怯んだ。扱う車がずらりと高級車揃いであったのも頭が痛い。一事が万事その調子で、これまで末端として関わっていた会社の、まったく見えていなかった一面を目の当たりにすることになった。
猫宮に関しても。
今日一日、「猫化したらすぐに対処」ということで龍子は猫宮のすぐそばに控えていたが、打ち合わせ、部下への指示、電話対応、そのすべてにおいて実に如才なく的確で、最高ランクの仕事ぶりというのが龍子にもよくわかった。
(あれだけ優秀なら、実家の後押しがあるにせよこの年齢で社長というのも納得。猫にして遊ばせておくのは惜しい人材というのも。私は、猫の社長推しだけど)
猫宮の後ろ姿を見ていると、前を向いたまま、猫宮が穏やかな声で話しかけてくる。
「古河さん、今日はありがとう。猫化が始まったのはここ二、三ヶ月で最初の頃はそれほど頻繁でもなく、短時間だった。だけどここ十日ほどで頻度が激増して、しかもなかなか人間に戻らないとあって。どうなることかと思ったが、古河さんの猫化抑止能力は本物だ。今朝のキ……のおかげか、久しぶりに日中フルで仕事ができた。かなり助かったよ」
「御役に立てたなら良かったです。仕事の方では全然だったので、引き続き頑張ろうと思います」
「一日目だからな。急な異動だったのもあるし、自分のペースで覚えてくれれば」
猫宮の話しぶりは優しかったが、龍子も一年半以上の社会人生活を経てよくわかっている。
(優秀なひとの考える「自分のペース」は非常に過酷……! お言葉に甘えてえのんびりやろうとすると痛い目を見る。早く仕事、覚えよう。元々抱えていた案件は気になるけど、うまく割り振ってくれたんだろうし。そこは私も「自分が急にいなくなったときに、周りが困る」ことにはならないように仕事進めてきたから、心配しすぎないようにして)
「異動が一時的なものとして、戻ったときに場所があるかどうかは、いまここでどれだけきちんと仕事をするか、ですよね。せっかくの機会ですし、会社のいろいろな面を知ることは、長い目で見て自分のためになると思っています」
仕事の話だけに真面目に返事をしたのに、犬島がくすくすと笑いながら声をかけてきた。
「社長のいろいろな面も見られますよ。ご興味は」
「猫ならば」
「どういうことだ。古河さんは俺の猫化解決に協力する気はないのか。解決しなければ君はずっと俺のそばにいることになるのに」
(猫ならなぁ……)
思ったけど、言ってしまえば猫宮が落ち込むと思ったので龍子は口をつぐんだ。
運転中ゆえ前を向いたまま、犬島が「うーん」と笑いの混じった唸り声をあげた。その横で、「あっ」と思い出したように猫宮が声を上げ、肩越しに振り返ってくる。
「朝の件、聞きそびれていた。古河さんの財政事情だ。夕食のときにでも、差し支えない範囲で構わないから教えてほしい」
「面白い話ではないですが」
「給料の査定額に影響する」
「わかりました、ぜひ詳しくご説明させてください!」
隠すようなことでもないからと、龍子は猫宮に対して、人手に渡った祖父母の屋敷について話すことにした。
犬島の運転するポルシェの後部座席で、龍子は青い顔をして俯いていた。
はあ、と溜息をついたところで、助手席で犬島と会話をしていた猫宮が気づき、振り返る。
「疲れたのか」
目を瞑って聞けば、この上なく麗しい美声。
(これで、目を開けてそこにいるのがお猫様だったら言うことないんだけど……)
人間型の猫宮には聞かせられない本音を押し隠し、龍子は顔を上げる。
「高級車、後部座席狭いんですね……。高いのに乗り降りしにくくて、座り心地悪いってどういうことですかこの車」
「見た目にステータスガン振りしてるんだ」
「見た目になんの価値があるっていうんですか。車なら見た目より安全性と乗り心地、人間なら見た目より中身、猫宮社長なら人間より猫」
「最後のはなんだ。余計なことを言ってるぞ」
怒られるかと思ったか、一言咎めただけで、猫宮は前に向き直った。
窓の外は、夜の闇に煌めく光の流れ行く首都高。
なめらかなハンドルさばきで運転しつつ、犬島が控えめに口を挟む。
「社長が猫のときは、こういう誰が乗っているかよくわからない車、使い勝手が良いんですよ。猫なら後部座席でも狭くないですし。昨日はこたつがあったので、違う車を使いましたが」
「ああ……、社用車とプライベート用と、会社と自宅に複数あるんですよね。高級車ばかり」
秘書として得た知識を呟いて、龍子は苦笑した。
(社長が猫のときは運転手も頼めないから、運転は秘書……って聞いたけど。秘書さんの仕事もやっぱりすごく大変)
突然の秘書抜擢。そして異動。
前触れのなかった人事に社内がほのかにざわついているのを肌で感じつつ、龍子は朝から社長室に隣接した秘書室での仕事をスタートさせた。
手ほどきは犬島で、社長のスケジュール管理など細かい説明や、電話の取り方等初歩的なところから確認があった。そのやりとりの中で、場合によっては運転も業務に含まれる、と説明を受けたのだ。
免許は持っていてもペーパーで、東京の道路を運転したことがない龍子はそれだけで怯んだ。扱う車がずらりと高級車揃いであったのも頭が痛い。一事が万事その調子で、これまで末端として関わっていた会社の、まったく見えていなかった一面を目の当たりにすることになった。
猫宮に関しても。
今日一日、「猫化したらすぐに対処」ということで龍子は猫宮のすぐそばに控えていたが、打ち合わせ、部下への指示、電話対応、そのすべてにおいて実に如才なく的確で、最高ランクの仕事ぶりというのが龍子にもよくわかった。
(あれだけ優秀なら、実家の後押しがあるにせよこの年齢で社長というのも納得。猫にして遊ばせておくのは惜しい人材というのも。私は、猫の社長推しだけど)
猫宮の後ろ姿を見ていると、前を向いたまま、猫宮が穏やかな声で話しかけてくる。
「古河さん、今日はありがとう。猫化が始まったのはここ二、三ヶ月で最初の頃はそれほど頻繁でもなく、短時間だった。だけどここ十日ほどで頻度が激増して、しかもなかなか人間に戻らないとあって。どうなることかと思ったが、古河さんの猫化抑止能力は本物だ。今朝のキ……のおかげか、久しぶりに日中フルで仕事ができた。かなり助かったよ」
「御役に立てたなら良かったです。仕事の方では全然だったので、引き続き頑張ろうと思います」
「一日目だからな。急な異動だったのもあるし、自分のペースで覚えてくれれば」
猫宮の話しぶりは優しかったが、龍子も一年半以上の社会人生活を経てよくわかっている。
(優秀なひとの考える「自分のペース」は非常に過酷……! お言葉に甘えてえのんびりやろうとすると痛い目を見る。早く仕事、覚えよう。元々抱えていた案件は気になるけど、うまく割り振ってくれたんだろうし。そこは私も「自分が急にいなくなったときに、周りが困る」ことにはならないように仕事進めてきたから、心配しすぎないようにして)
「異動が一時的なものとして、戻ったときに場所があるかどうかは、いまここでどれだけきちんと仕事をするか、ですよね。せっかくの機会ですし、会社のいろいろな面を知ることは、長い目で見て自分のためになると思っています」
仕事の話だけに真面目に返事をしたのに、犬島がくすくすと笑いながら声をかけてきた。
「社長のいろいろな面も見られますよ。ご興味は」
「猫ならば」
「どういうことだ。古河さんは俺の猫化解決に協力する気はないのか。解決しなければ君はずっと俺のそばにいることになるのに」
(猫ならなぁ……)
思ったけど、言ってしまえば猫宮が落ち込むと思ったので龍子は口をつぐんだ。
運転中ゆえ前を向いたまま、犬島が「うーん」と笑いの混じった唸り声をあげた。その横で、「あっ」と思い出したように猫宮が声を上げ、肩越しに振り返ってくる。
「朝の件、聞きそびれていた。古河さんの財政事情だ。夕食のときにでも、差し支えない範囲で構わないから教えてほしい」
「面白い話ではないですが」
「給料の査定額に影響する」
「わかりました、ぜひ詳しくご説明させてください!」
隠すようなことでもないからと、龍子は猫宮に対して、人手に渡った祖父母の屋敷について話すことにした。