あやかし猫社長は契約花嫁を逃さない
洗礼と心構えと
朝の通勤時に「函館」と聞いて浮かれてしまったが、まだ先の話。
もちろん、出社すれば仕事が待ち構えている。
「冗談じゃなかったのねえ。営業から異動になった古河さんってあなたでしょう」
猫宮と犬島が席を外している、わずかの間。
秘書課に用意してもらった机に向かっていたところで、龍子は女性社員から声をかけられた。
(来た……!)
犬島曰く「上等なコックリさん」で龍子が猫宮のお助け要員であると突き止められたのが木曜日。
明くる日の金曜日、突然の異動で取るものも取り敢えずで、秘書課に顔を出して挨拶だけ済ませたものの、ほぼ社長室に常駐で他の秘書とはろくに顔を合わせることもなく。
月曜日になって、ようやくの洗礼。
龍子はすばやく相手を見て取る。
茶色の髪は綺麗に巻いてアレンジしていて、メイクは上品かつ華やか。小ぶりのダイヤのネックレスに、少しだけ体の線を拾うクリーム色のワンピース。ピンヒールが決まっていて、スタイルの良さが際立って見える。
顎に添えた指先には、桜貝のように染めた爪にビーズを飾ったネイルが映えていた。
ひとめで、俳優と見紛う迫力の美人。
椅子から速やかに立ち上がった龍子は、さっと頭を下げた。
「入社二年目の古河龍子です。営業で成績が伸び悩んでいたところ、どういうわけか社長の目にとまりまして、仕事を覚えろとここに呼ばれました。なるべく早く戦力になりたいと思っていますので、何かあればぜひ私へ」
食い気味に詰め寄ると、女性社員は小首を傾げて、明後日の方を見た。
「ん~……そうは言っても、ここのお仕事は、単純な事務仕事ではないのはわかるでしょう。たとえば、お付き合いある会社の重役の方や人間関係をよく知っておかなければいけない場面も多いわ。そういうこと、おいそれと『仕事だからやってみて』と回すわけにはいかないの。わかるでしょう? お客様は新人の実験台ではない。ひとつひとつの仕事がすべて、失敗は許されないのよ」
「はい。それは営業でも言われていました。ひとつの失敗が億単位の損害につながりかねない。慎重に慎重を期して、それでも確信を持てないときは絶対に無理をするな。抱え込まないで先輩や上司に相談しろって」
「その通りよ。ここでもその気持ちを忘れずに、頑張ってね」
構えていたのが拍子抜けするほどあっさりと話を切り上げ、女性社員は自分の机へと向かっていく。
洗礼らしい洗礼もなく、龍子の方から「あの」と追いすがってしまった。
「なに?」
「ええと、もう少し何かあるかと思っていました。この異動に関して、縁故か? とか、どんな手を使ったの? なんて勘ぐられたり。そういうの、聞いてもらわないと言いにくいというか。いえ、何も無くていまの説明がすべてなんですが」
せめてもう少し、何か。
(社内的にどう言われているとか、ヒントくらい掴めないかなって思っていて……。だって絶対に噂はされてるよね……!? 視線感じるし。たぶん、社長と犬島さんと一緒に出社している時点で……)
できれば言い訳をさせてほしかったのだ。
皆さんが考えているような裏は何もありませんよ~、と。
もちろん猫化という大きなきっかけやつながりはあるのだが、それは言えないので。
しかし、龍子が言い募っても、女性社員の反応は鈍かった。
「それねえ。女がみんな噂好きだと思われても困るなぁ。むしろ、こういう仕事だからこそ、余計なことには首をつっこまないようにしているの。知ったところで、どうせ誰にも言えないわけだし。もちろんSNSなんてもってのほか。噂が広まったときに出どころが私なんて思われても良いこと何もないでしょ? 知りたくないことは聞かないのが一番」
「それはそうですね……!」
言われるまでもなく、もっともな理由だった。たしかに、龍子が彼女の立場でも同じように考える。関わるつもりのないことは、知らないに限るのだ。
女性社員は、さらに続けて言った。
「うちのトップは犬島さんだけど、その辺すごく厳しいよ。部署内で派閥なんか作ろうものなら、速攻で切り崩して飛ばされる。向上心やライバル心程度なら害悪にはならないけど、足の引っ張り合いは邪魔でしかないって。今ここに残っているのって、だいたいその理念がわかっている社員だけね。無用な争いはしない。無駄な噂話はしない。私もそのつもりだから、困ったことがあったら言って。仕事の効率を落とさないことが大事よ」
言うだけ言って、じゃあね、と席に戻ってしまう。
ありがとうございます、と頭を下げてから龍子も椅子に腰を下ろした。
胸が、すっと軽くなっていた。
(同じ社内や部署内でいがみあっても仕方ないってのは、その通りだ。さすが犬島さん。人間関係の掌握でもやり手なんですね、助かります)
緊張がゆるんで、ほっと息を吐き出す。
気にしないようにとは思っていたが、この人事が周囲からどう見られているのか、まったく気にしていなかったわけじゃない。
しかし、少なくとも、秘書課にいる間はいらぬ摩擦は避けられそうだとわかった。
急に気が楽になった。
「あ、でもね」
そこで、思い出したように女性社員が自分の席から声をかけてくる。
秘書室のデスクは六つ。いまは四人が席についていたが、他の二人は電話中で会話を気にしてはいない。
「なんでしょう?」
電話中の先輩たちを気にしつつ龍子が声をひそめてきくと、女性社員もまた声を低めて答えた。
「わかると思うけど、社長も犬島さんも、あのスペックで独身でしょう。彼女がいるかどうかもはっきりしていなくて。だから、個人的に好意を寄せている社員はやっぱり結構いると思うし、そういうひとは女性のあなたを気にすると思う。特に、社長は前々から取引先のお嬢さんと婚約の話もあるし、先方も乗り気みたいだから。かち合うと多分、面倒なことになる」
「婚約……」
心臓が、ドキッと跳ねた。
詳しい話を聞きたかったが、ちょうど電話がかかってきて、先輩はさっと受話器を持ち上げて通話を開始。
結局、その日はそれ以上の話を聞くことはできなかった。
(そういえば犬島さんも言ってたかも……。社長は良家のお嬢さんと婚約がどうのって。その話、まだふつうに生きてるってことだよね)
それは別に、龍子が気にするようなことではない。
龍子は一時的に猫宮の家に身を寄せていて、手段として猫宮(※猫状態)と「キス」をすることはあるが、それは「人間に戻す」以上の意味をもたないものだ。
このまま文献の解読が進み、猫宮が猫化を自分の意思でコントロールできるようになれば、龍子はお役御免。
よそに部屋を借りて、屋敷を出ていき、おそらく秘書課ではないどこかの部署にまわされることになる。
そこで関係は終わるのだ。
(最近、そばにいることが多くて勘違いしそうになっていたけど、私と社長は本来無関係な間柄。これ以上親しくして入れ込んだりしないように気をつけないと)
後戻りができなくなる前に。
そう決意したはずなのに。
その日から一週間、昼は仕事で夜は屋敷で一緒。しかも夜遅くになると猫化してしまう現象が続き、なし崩し的に猫宮は龍子の部屋に通ってコタツで就寝という生活が続いた。
なんとなくそのことを犬島には打ち明けられず、猫宮がその件を話題にすることもなく、犬島からも聞かれなかった。
そして迎えた土日。
かねてより約束の通り、朝イチの飛行機で函館に向かうことになった。
飛行場に向かう車の運転は猫宮で、「珍しいですね。犬島さんを拾ってから行くんですか?」と助手席から龍子は何気なく尋ねた。
それに対して、猫宮は前を向いたまま「ん?」と軽く驚いたように声を上げて答えた。
「来ないぞ。函館は二人で行く。犬島から聞いてなかったのか?」
もちろん、出社すれば仕事が待ち構えている。
「冗談じゃなかったのねえ。営業から異動になった古河さんってあなたでしょう」
猫宮と犬島が席を外している、わずかの間。
秘書課に用意してもらった机に向かっていたところで、龍子は女性社員から声をかけられた。
(来た……!)
犬島曰く「上等なコックリさん」で龍子が猫宮のお助け要員であると突き止められたのが木曜日。
明くる日の金曜日、突然の異動で取るものも取り敢えずで、秘書課に顔を出して挨拶だけ済ませたものの、ほぼ社長室に常駐で他の秘書とはろくに顔を合わせることもなく。
月曜日になって、ようやくの洗礼。
龍子はすばやく相手を見て取る。
茶色の髪は綺麗に巻いてアレンジしていて、メイクは上品かつ華やか。小ぶりのダイヤのネックレスに、少しだけ体の線を拾うクリーム色のワンピース。ピンヒールが決まっていて、スタイルの良さが際立って見える。
顎に添えた指先には、桜貝のように染めた爪にビーズを飾ったネイルが映えていた。
ひとめで、俳優と見紛う迫力の美人。
椅子から速やかに立ち上がった龍子は、さっと頭を下げた。
「入社二年目の古河龍子です。営業で成績が伸び悩んでいたところ、どういうわけか社長の目にとまりまして、仕事を覚えろとここに呼ばれました。なるべく早く戦力になりたいと思っていますので、何かあればぜひ私へ」
食い気味に詰め寄ると、女性社員は小首を傾げて、明後日の方を見た。
「ん~……そうは言っても、ここのお仕事は、単純な事務仕事ではないのはわかるでしょう。たとえば、お付き合いある会社の重役の方や人間関係をよく知っておかなければいけない場面も多いわ。そういうこと、おいそれと『仕事だからやってみて』と回すわけにはいかないの。わかるでしょう? お客様は新人の実験台ではない。ひとつひとつの仕事がすべて、失敗は許されないのよ」
「はい。それは営業でも言われていました。ひとつの失敗が億単位の損害につながりかねない。慎重に慎重を期して、それでも確信を持てないときは絶対に無理をするな。抱え込まないで先輩や上司に相談しろって」
「その通りよ。ここでもその気持ちを忘れずに、頑張ってね」
構えていたのが拍子抜けするほどあっさりと話を切り上げ、女性社員は自分の机へと向かっていく。
洗礼らしい洗礼もなく、龍子の方から「あの」と追いすがってしまった。
「なに?」
「ええと、もう少し何かあるかと思っていました。この異動に関して、縁故か? とか、どんな手を使ったの? なんて勘ぐられたり。そういうの、聞いてもらわないと言いにくいというか。いえ、何も無くていまの説明がすべてなんですが」
せめてもう少し、何か。
(社内的にどう言われているとか、ヒントくらい掴めないかなって思っていて……。だって絶対に噂はされてるよね……!? 視線感じるし。たぶん、社長と犬島さんと一緒に出社している時点で……)
できれば言い訳をさせてほしかったのだ。
皆さんが考えているような裏は何もありませんよ~、と。
もちろん猫化という大きなきっかけやつながりはあるのだが、それは言えないので。
しかし、龍子が言い募っても、女性社員の反応は鈍かった。
「それねえ。女がみんな噂好きだと思われても困るなぁ。むしろ、こういう仕事だからこそ、余計なことには首をつっこまないようにしているの。知ったところで、どうせ誰にも言えないわけだし。もちろんSNSなんてもってのほか。噂が広まったときに出どころが私なんて思われても良いこと何もないでしょ? 知りたくないことは聞かないのが一番」
「それはそうですね……!」
言われるまでもなく、もっともな理由だった。たしかに、龍子が彼女の立場でも同じように考える。関わるつもりのないことは、知らないに限るのだ。
女性社員は、さらに続けて言った。
「うちのトップは犬島さんだけど、その辺すごく厳しいよ。部署内で派閥なんか作ろうものなら、速攻で切り崩して飛ばされる。向上心やライバル心程度なら害悪にはならないけど、足の引っ張り合いは邪魔でしかないって。今ここに残っているのって、だいたいその理念がわかっている社員だけね。無用な争いはしない。無駄な噂話はしない。私もそのつもりだから、困ったことがあったら言って。仕事の効率を落とさないことが大事よ」
言うだけ言って、じゃあね、と席に戻ってしまう。
ありがとうございます、と頭を下げてから龍子も椅子に腰を下ろした。
胸が、すっと軽くなっていた。
(同じ社内や部署内でいがみあっても仕方ないってのは、その通りだ。さすが犬島さん。人間関係の掌握でもやり手なんですね、助かります)
緊張がゆるんで、ほっと息を吐き出す。
気にしないようにとは思っていたが、この人事が周囲からどう見られているのか、まったく気にしていなかったわけじゃない。
しかし、少なくとも、秘書課にいる間はいらぬ摩擦は避けられそうだとわかった。
急に気が楽になった。
「あ、でもね」
そこで、思い出したように女性社員が自分の席から声をかけてくる。
秘書室のデスクは六つ。いまは四人が席についていたが、他の二人は電話中で会話を気にしてはいない。
「なんでしょう?」
電話中の先輩たちを気にしつつ龍子が声をひそめてきくと、女性社員もまた声を低めて答えた。
「わかると思うけど、社長も犬島さんも、あのスペックで独身でしょう。彼女がいるかどうかもはっきりしていなくて。だから、個人的に好意を寄せている社員はやっぱり結構いると思うし、そういうひとは女性のあなたを気にすると思う。特に、社長は前々から取引先のお嬢さんと婚約の話もあるし、先方も乗り気みたいだから。かち合うと多分、面倒なことになる」
「婚約……」
心臓が、ドキッと跳ねた。
詳しい話を聞きたかったが、ちょうど電話がかかってきて、先輩はさっと受話器を持ち上げて通話を開始。
結局、その日はそれ以上の話を聞くことはできなかった。
(そういえば犬島さんも言ってたかも……。社長は良家のお嬢さんと婚約がどうのって。その話、まだふつうに生きてるってことだよね)
それは別に、龍子が気にするようなことではない。
龍子は一時的に猫宮の家に身を寄せていて、手段として猫宮(※猫状態)と「キス」をすることはあるが、それは「人間に戻す」以上の意味をもたないものだ。
このまま文献の解読が進み、猫宮が猫化を自分の意思でコントロールできるようになれば、龍子はお役御免。
よそに部屋を借りて、屋敷を出ていき、おそらく秘書課ではないどこかの部署にまわされることになる。
そこで関係は終わるのだ。
(最近、そばにいることが多くて勘違いしそうになっていたけど、私と社長は本来無関係な間柄。これ以上親しくして入れ込んだりしないように気をつけないと)
後戻りができなくなる前に。
そう決意したはずなのに。
その日から一週間、昼は仕事で夜は屋敷で一緒。しかも夜遅くになると猫化してしまう現象が続き、なし崩し的に猫宮は龍子の部屋に通ってコタツで就寝という生活が続いた。
なんとなくそのことを犬島には打ち明けられず、猫宮がその件を話題にすることもなく、犬島からも聞かれなかった。
そして迎えた土日。
かねてより約束の通り、朝イチの飛行機で函館に向かうことになった。
飛行場に向かう車の運転は猫宮で、「珍しいですね。犬島さんを拾ってから行くんですか?」と助手席から龍子は何気なく尋ねた。
それに対して、猫宮は前を向いたまま「ん?」と軽く驚いたように声を上げて答えた。
「来ないぞ。函館は二人で行く。犬島から聞いてなかったのか?」