あやかし猫社長は契約花嫁を逃さない
異界への門(後編)
(ひとがいる……!?)
驚いたものの、声は出なかった。
それに、存在を気取られてはならぬと、本能的に察したのだ。
龍子の記憶にある限り、祖父母がそういった服装をしていたことはないはず。もっとずっと古い時代を思わせた。
一言で、いまこの場で目にするには、異様だった。
せめて全身が見えていれば違ったかもしれないが、足だけというのが得体のしれなさを強く印象付ける。
逃げなければ。
ここにいてはいけない。
そう思う一方で、三毛猫の不在が気にかかって仕方ない。
(社長、こんなときにどこへ……! 何かあったらどうするんですか~~!!)
龍子は、門の向こうの存在に気づかれないように、ひとまず立ち上がろうとする。
しかし体が強張っていたせいか、足首に力が入らず、その場に尻餅をついてしまった。
「あっ……」
声が。
龍子の座った位置からは、角度的にあの草履の足元は見えていない。それなのに、それが立ち止まった気配を感じた。
ざわざわ、と葉擦れの音が頭上で大きく響く。
まるで地震の最中に無理やり動こうとしたように、体がぐらつく。
(気づかれた)
つばを飲み込み、門扉の下の隙間を見つめる。
その視線の先で。
キィ……
蝶番がきしむような音をたてて門がゆっくりと開いた。
ふわっと内側から風が吹いてきて、光が差してくるのを感じ、まぶしさに目を瞑る。
次に目を開いたときには、門から少し入ったところでくたりと倒れている三毛猫の姿があった。
「社長! 社長ですよね!? このへんの野良猫さんじゃなくて社長ですよね、私は猫の見た目の区別がつかない女なんですよ! 猫宮社長でしたら起きて返事をしてください! そんなところで倒れてないで!」
ここはいまや他人の敷地。
たとえ門が開いていてもおいそれとは踏み込めないと、龍子は精一杯声を出して呼びかける。
「え~~、なんで倒れてるんですか! 自分で歩いて出てこれないなら私が行くしかないじゃないですか! あとでなんでそんなことしたって怒らないでくださいね!」
未練がましく騒ぎながら、龍子はすくっと立ち上がり、思い切ってそちら側へと足を踏み入れようとする。
そのとき、猫がぱっと目を覚まして体を起こした。
龍子に気づくと、飛び上がるほどの勢いで走ってきて叫ぶ。
「来るな!」
今しもそこを越えようとしていた龍子に、飛びかかった。
胸の中に、ごいんと頭がぶつかる。
「わあー! 猫に懐かれちゃった、うれしい!」
ひしっと三毛猫を抱きとめて、龍子は思いの丈を叫んだ。
それまでの苦節二十数年、人生で一度も猫に好かれず。
飼い猫にすら鬱陶しそうにされてきた身としては、たとえ中身が人間で自社の社長であると知っていても、猫に頼られるのは幸せな体験だった。
「古河さん、俺は猫だ。猫だな?」
「はいっ!? 猫ですね!」
なんの確認だろう、と不思議に思いつつ龍子は猫宮の確認に対して全力で肯定する。
腕の中で、猫がもぞもぞと動いた。少し力を弱めると、にゅ、と首を伸ばしてきて猫の鼻先がちょこん、と龍子の唇に触れた。
(キスされた……!?)
絶句した龍子の手の中で、三毛猫は軽く頭を振って、するりと抜け出ていった。
地上に降り立つ前に姿を変え、人間の青年となる。
すっかりと高くなった頭の位置。ちらりと龍子を見下ろしてから、龍子をかばうようにその前に立ち、門の方へと向き直った。
〈このみたまやに いわいまつり しづめまつりたる よよのみおやたちのみまえに つつしみ うやまい もうしあげる〉
韻を踏み、うたうようにつむがれる言葉。
手を合わせ、影絵をするときのように指を組みあせて、猫宮は祝詞を捧ぐ。
〈みすこやかに いえかどいやたかに いやひろにたちさかえしめたまえと かしこみかしこみ……〉
祈りの言葉が終わったそのとき、誰も触れていない門扉が、ばたんと閉じた。
いつしか風も絶えていて、しん、と耳に痛いほどの沈黙。
やがて、猫宮はゆっくりと手を下ろす。
「……終わりました?」
何かが。
恐る恐る尋ねると、猫宮が振り返った。
いつもと変わらぬ泰然とした様子で、龍子と目が合うと穏やかに微笑む。
「終わったと言えば、終わったかな。ひとまず。中の調査はまた改めて。おそらくここの買い主とはまだ連絡がつかないだろう。いまのところ手放す気はなさそうだ」
「えーっ、それどういう意味ですか? 誰かに会ったんですか? でも連絡がつかないって……、そういえばさっき中に誰かいましたよね? 足が」
草履を履いた足が、見えた。
それを口に出す前に、猫宮に盛大な溜息をつかれた。
「古河さんのご先祖さまに、ものっそもふられた」
「もふ?」
「遠慮なく、がしゃがしゃ毛を逆立てられて、もふもふもふもふ……。わかったけど、古河さんも猫相手にそういうことするんじゃないのか? それは嫌われるだろう。間違いない。猫はそういうことをする相手のことが嫌いだ。人間側が好きかどうかは関係ない。猫は嫌がる」
「なんですか社長、なんでそんなに猫に詳しいんですか!? というか先祖代々猫に嫌われているようなこと言いましたよね、いま。たしかにそうですけど。うちの実家、猫がいますけど父にしか懐いてませんからね! 私と母は好きで構いすぎるせいか、とてもとても嫌われています。あ、でも母はごはんを用意する係として一応認められているような」
話しながら、(あれ? なんの話だっけ?)と思わないでもなかったが、猫宮がさっさと歩き出したので龍子もそれにならって歩き出した。
追いついたところで、手がぶつかる。
龍子が拾い上げて持って来ていたやきとり弁当の入ったビニール袋を、猫宮がさっと奪い取った。
猫になる前の猫宮が持っていて、龍子が屋敷まで持ってきていたもの。
「腹減ったな。どこか景色の良いところで食べよう。その後はデザートも探しに行かないと。何かオススメはあるんだろ?」
聞かれた。
つまり、説明を求められている。
龍子の中で、スイッチがびしっと入った。
「ありますね! ありまくりますね! そうですね、ここからだったら、まずは末広町の電停から市電に乗って函館どっぐ方面に足を伸ばすのもいいかもしれません。国の指定文化財になっている太刀川家の店舗兼住居を改装したカフェなんて、見応えありますよ。もちろん元町近辺で散策がてらどこかに入ってもいいですね。明治時代の海産物問屋を改装したカフェとか、アニメや映画で扱われて聖地巡礼スポットになっている古民家風カフェとか。フランク・ロイド・ライトの流れをくむ建築家の設計した洋館もあります。ここは今は、民間所有なので外観を見るだけですが。私のオススメは宝来町の『ひし伊』です。あ、でも待って下さい、せっかくなので車で五稜郭方面まで移動してもいいかな。あのへんだと『夏井珈琲 ブリュッケ』なんてすごくおしゃれですよ。今すぐ画像検索してみてください、絶対行きたくなりますから。ごふ」
早口のオタクになりすぎて、噛んだ。
樹間を渡る風に目を細めていた猫宮は、ふふふ、と声を立てて笑っていた。
気がついたらずいぶん屋敷から離れてしまっている。
(結局、用事は済んだんだっけ?)
狐につままれたような。
不思議な思いに駆られつつも、なぜか深く追求する気になれず、龍子は再び函館案内に集中することにした。
* * *
驚いたものの、声は出なかった。
それに、存在を気取られてはならぬと、本能的に察したのだ。
龍子の記憶にある限り、祖父母がそういった服装をしていたことはないはず。もっとずっと古い時代を思わせた。
一言で、いまこの場で目にするには、異様だった。
せめて全身が見えていれば違ったかもしれないが、足だけというのが得体のしれなさを強く印象付ける。
逃げなければ。
ここにいてはいけない。
そう思う一方で、三毛猫の不在が気にかかって仕方ない。
(社長、こんなときにどこへ……! 何かあったらどうするんですか~~!!)
龍子は、門の向こうの存在に気づかれないように、ひとまず立ち上がろうとする。
しかし体が強張っていたせいか、足首に力が入らず、その場に尻餅をついてしまった。
「あっ……」
声が。
龍子の座った位置からは、角度的にあの草履の足元は見えていない。それなのに、それが立ち止まった気配を感じた。
ざわざわ、と葉擦れの音が頭上で大きく響く。
まるで地震の最中に無理やり動こうとしたように、体がぐらつく。
(気づかれた)
つばを飲み込み、門扉の下の隙間を見つめる。
その視線の先で。
キィ……
蝶番がきしむような音をたてて門がゆっくりと開いた。
ふわっと内側から風が吹いてきて、光が差してくるのを感じ、まぶしさに目を瞑る。
次に目を開いたときには、門から少し入ったところでくたりと倒れている三毛猫の姿があった。
「社長! 社長ですよね!? このへんの野良猫さんじゃなくて社長ですよね、私は猫の見た目の区別がつかない女なんですよ! 猫宮社長でしたら起きて返事をしてください! そんなところで倒れてないで!」
ここはいまや他人の敷地。
たとえ門が開いていてもおいそれとは踏み込めないと、龍子は精一杯声を出して呼びかける。
「え~~、なんで倒れてるんですか! 自分で歩いて出てこれないなら私が行くしかないじゃないですか! あとでなんでそんなことしたって怒らないでくださいね!」
未練がましく騒ぎながら、龍子はすくっと立ち上がり、思い切ってそちら側へと足を踏み入れようとする。
そのとき、猫がぱっと目を覚まして体を起こした。
龍子に気づくと、飛び上がるほどの勢いで走ってきて叫ぶ。
「来るな!」
今しもそこを越えようとしていた龍子に、飛びかかった。
胸の中に、ごいんと頭がぶつかる。
「わあー! 猫に懐かれちゃった、うれしい!」
ひしっと三毛猫を抱きとめて、龍子は思いの丈を叫んだ。
それまでの苦節二十数年、人生で一度も猫に好かれず。
飼い猫にすら鬱陶しそうにされてきた身としては、たとえ中身が人間で自社の社長であると知っていても、猫に頼られるのは幸せな体験だった。
「古河さん、俺は猫だ。猫だな?」
「はいっ!? 猫ですね!」
なんの確認だろう、と不思議に思いつつ龍子は猫宮の確認に対して全力で肯定する。
腕の中で、猫がもぞもぞと動いた。少し力を弱めると、にゅ、と首を伸ばしてきて猫の鼻先がちょこん、と龍子の唇に触れた。
(キスされた……!?)
絶句した龍子の手の中で、三毛猫は軽く頭を振って、するりと抜け出ていった。
地上に降り立つ前に姿を変え、人間の青年となる。
すっかりと高くなった頭の位置。ちらりと龍子を見下ろしてから、龍子をかばうようにその前に立ち、門の方へと向き直った。
〈このみたまやに いわいまつり しづめまつりたる よよのみおやたちのみまえに つつしみ うやまい もうしあげる〉
韻を踏み、うたうようにつむがれる言葉。
手を合わせ、影絵をするときのように指を組みあせて、猫宮は祝詞を捧ぐ。
〈みすこやかに いえかどいやたかに いやひろにたちさかえしめたまえと かしこみかしこみ……〉
祈りの言葉が終わったそのとき、誰も触れていない門扉が、ばたんと閉じた。
いつしか風も絶えていて、しん、と耳に痛いほどの沈黙。
やがて、猫宮はゆっくりと手を下ろす。
「……終わりました?」
何かが。
恐る恐る尋ねると、猫宮が振り返った。
いつもと変わらぬ泰然とした様子で、龍子と目が合うと穏やかに微笑む。
「終わったと言えば、終わったかな。ひとまず。中の調査はまた改めて。おそらくここの買い主とはまだ連絡がつかないだろう。いまのところ手放す気はなさそうだ」
「えーっ、それどういう意味ですか? 誰かに会ったんですか? でも連絡がつかないって……、そういえばさっき中に誰かいましたよね? 足が」
草履を履いた足が、見えた。
それを口に出す前に、猫宮に盛大な溜息をつかれた。
「古河さんのご先祖さまに、ものっそもふられた」
「もふ?」
「遠慮なく、がしゃがしゃ毛を逆立てられて、もふもふもふもふ……。わかったけど、古河さんも猫相手にそういうことするんじゃないのか? それは嫌われるだろう。間違いない。猫はそういうことをする相手のことが嫌いだ。人間側が好きかどうかは関係ない。猫は嫌がる」
「なんですか社長、なんでそんなに猫に詳しいんですか!? というか先祖代々猫に嫌われているようなこと言いましたよね、いま。たしかにそうですけど。うちの実家、猫がいますけど父にしか懐いてませんからね! 私と母は好きで構いすぎるせいか、とてもとても嫌われています。あ、でも母はごはんを用意する係として一応認められているような」
話しながら、(あれ? なんの話だっけ?)と思わないでもなかったが、猫宮がさっさと歩き出したので龍子もそれにならって歩き出した。
追いついたところで、手がぶつかる。
龍子が拾い上げて持って来ていたやきとり弁当の入ったビニール袋を、猫宮がさっと奪い取った。
猫になる前の猫宮が持っていて、龍子が屋敷まで持ってきていたもの。
「腹減ったな。どこか景色の良いところで食べよう。その後はデザートも探しに行かないと。何かオススメはあるんだろ?」
聞かれた。
つまり、説明を求められている。
龍子の中で、スイッチがびしっと入った。
「ありますね! ありまくりますね! そうですね、ここからだったら、まずは末広町の電停から市電に乗って函館どっぐ方面に足を伸ばすのもいいかもしれません。国の指定文化財になっている太刀川家の店舗兼住居を改装したカフェなんて、見応えありますよ。もちろん元町近辺で散策がてらどこかに入ってもいいですね。明治時代の海産物問屋を改装したカフェとか、アニメや映画で扱われて聖地巡礼スポットになっている古民家風カフェとか。フランク・ロイド・ライトの流れをくむ建築家の設計した洋館もあります。ここは今は、民間所有なので外観を見るだけですが。私のオススメは宝来町の『ひし伊』です。あ、でも待って下さい、せっかくなので車で五稜郭方面まで移動してもいいかな。あのへんだと『夏井珈琲 ブリュッケ』なんてすごくおしゃれですよ。今すぐ画像検索してみてください、絶対行きたくなりますから。ごふ」
早口のオタクになりすぎて、噛んだ。
樹間を渡る風に目を細めていた猫宮は、ふふふ、と声を立てて笑っていた。
気がついたらずいぶん屋敷から離れてしまっている。
(結局、用事は済んだんだっけ?)
狐につままれたような。
不思議な思いに駆られつつも、なぜか深く追求する気になれず、龍子は再び函館案内に集中することにした。
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