エリート弁護士は生真面目秘書を溺愛して離さない
 その瞬間、握った拳に力がこもった。手のひらに爪が食い込んで痛かった。この拳を振り下ろしたらどれほどスッキリするだろう。

 けれど次の瞬間には重たい疲労感がドッと押し寄せてきて、深くため息をついた。そんなことをしても何もならない。これ以上稔に縋ったって惨めになるだけだ。

「……わかった、別れましょう。お幸せにね」

 由依が答えると、なぜか稔が悲しげに眉を下げる。

「こんなときでも怒りもしないんだな。お前らしいよ。いつも冷静で、俺には全然頼ってくれなくて、会えなくても平気そうで、甘えてくれなくて。付き合っている間中、俺を本当に好きなのかよくわからなかった」

 それは稔に迷惑をかけたくなかったからだ。胸が鈍く痛んで、由依は唇を噛みしめる。

 一度、風邪を引いたときに稔に買い物を頼んだことがある。けれど稔は悪気なさそうに「俺に移ったら困るし通販で頼んだら? というか来週までに治さないと一緒に旅行に行けないよね。もうキャンセルもできないからさ、頼むよ」と言い放ったのだ。

 そんな人に頼れるわけがない。

(しっかりして。私は一人でも大丈夫だって、平気な顔をするの。ずっとそうだったでしょう?)

 由依は必死に言い聞かせ、噛んだ唇をほどいて無理やりに笑顔を繕った。

「そう、期待に添えなくてごめんなさい。でも私にはもう関係ないことね」
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