インハウスローヤーは私を妻にして専務になりたいだけ ~なのに待っていたのは溺愛でした~
 ◇

思い出しても仕方のないこと。胸にあふれかえるどうしようもない負い目と憎悪をやり過ごすように、仕事に集中しようとキーボードに手を伸ばす。

「渚紗ちゃん、婚約しちゃうんだって? 寂しいなぁ」
「もうー、秋山さんは調子いいんですから」

甘ったるい声が聞こえて、背中がぞわりと粟立った。妹の渚紗はShiiba社で受付嬢をしている。来客を会議室などへ案内する際に、このフロアを通ることがあるのだが、今日はその日だったらしい。

デレデレする中年男性に微笑む渚紗が視界の端に入ってしまい、その勝ち気な笑顔に思わず肩が釣り上がる。

彼女が地味な私に気付くわけがない。けれど、渚紗にまた何か言われたら、と、彼女を見かける度に身体が固くなってしまう。

やがて彼女が去ってゆき、ほっと胸をなでおろした。

千秋先輩と目が合う。苦笑いを浮かべると、先輩は不満げに眉を潜めた。千秋先輩は私の入社時の教育係だった。事務員の私に一通り仕事を教えてくれたうえ、今の私の境遇を知っている、数少ない味方でもある。

千秋先輩みたいな人もいるんだから。もやもやを押し殺し、さっさと仕事の続きに取り掛かろうとパソコンの画面に目を向けた。

けれど、私はひっと息を飲んだ。社長()から社内メールが飛んできていたのだ。

『話があるから、終業後社長室まで来なさい』

何かしてしまっただろうか。ここ最近の行いを振り返るも、身に覚えはなく。けれど、父に呼ばれるなんてよほどのことだ。

その日、私は恐々としながら業務を終わらせると、震えながら社長室へ向かった。
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