大好きなあなたに、笑顔でまたねと言えますように
 チリリリリ……設定しているアラームが鳴り、私は目が覚めた。いつもより眠気が飛んで、私はすっと体を起こすことができた。
 ――八月八日。
 きっと今日は、私が一年間の中で最も嫌っている一日だろう。

 「おはよう、愛海ちゃん! 準備できた?」

 「……うん、昨日から準備してるから。朝ご飯、できてますか?」

 「ご飯なんだけど、今日バタバタしてて作る時間なくて……食パンでいいかな?」

 ――お母さんはどんなに忙しくても、絶対ご飯作ってくれたのに。
 お母さんと友里香さんを比べてしまうのは良くないと分かっているけれど、どうしてもお母さんが恋しくなってしまう。特に、今日は――お母さんの命日だから。
 私は黒色のワンピースを着て、お母さんが好きだった、赤色のカーネーションの花束を手に持った。昨日近くの花屋へ行って、私が一人で選んだものだ。


 『お母さん、何でカーネーションが好きなの?』

 『……うーん、何でだろうなあ。情熱の真紅でとても綺麗だから、かな。愛海、花言葉って知ってる?』

 『はなことば?』

 『お花に言葉が込められているんだよ。赤いカーネーションは、母からの愛って意味もあるんだって。お母さん、愛海のこと大好きだからね――』


 お母さんが入院して、数ヶ月経ったある日の会話を鮮明に思い出す。私はどんどん込み上げてくる吐き気と目眩を我慢しながら、靴を履く。どうして、お母さんのことを思い出すとこんなにも胸が苦しくなるのだろう。
 ――お母さんのところに、行くからね。待っててね。
 写真のお母さんに心のなかで呟いて、私は家をこの前買った白い雪結晶のスニーカーを履く。

 「愛海、準備できたか?」

 「お父さん、おはよ。うん、先に車行ってるね」

 「ああ、花束買っててくれたのか。別に今日買えたのに」

 「……ごめん」

 お母さんが好きだと言っていた花を、私が用意しただけ。普通だったら感謝されるべきなのに、僻みのように言われなくてはならない。
 ――お父さんは何も、わかってくれないんだね。
 お父さんはやはりもうお母さんのことを何とも思っていないんだろうな。新しい奥さんも、子供もできて、幸せな日々を送っているから。
  “前に好きだった女性” のお墓参りに行くだけ。それだけのことなのだろう――。

 「愛海お姉ちゃん、今日どこ行くのー?」

 「……私の前のお母さんのお墓」

 “前のお母さん” なんて言いたくなかった。だって私のお母さんは、ずっとお母さんだけ。
 どうして、どうして前のお母さんだなんて言わなくてはいけないのだろうか。
 ――……辛いよ。

 「お墓つまんなーい、何で沙耶香には関係ない人のところ行かなくちゃいけないの?」

 「ちょっと沙耶香……!」

 私は何かがプツン、と切れると音がした。
 いくら子供だとはいえ、お母さんのことを悪く言われるのはとても悲しかったから。

 「だって、私のたった一人のお母さんなんだから。悪く、言わないでよ……」

 「おい愛海、相手は沙耶香だぞ、そんなにムキにならなくてもいいじゃないか」

 私は言ってしまってからハッ、と気がつく。私が酷いことを言った自覚はあった。
 けれど、どうして私だけが言われなければならないのだろう。沙耶香ちゃんだって、言わなければ良かったのに……っ。
 ――お父さんはお母さんのことを悪く言われて、何とも思わないの?
 やっぱりもうお父さんはお母さんへの愛がないんだ……そう確信した。
 当然、私のことも愛してくれてなどいない。少しだけ、心に空いた穴が広がった気がした。

 「……ごめん、なさい。沙耶香ちゃんもごめんね」

 「愛海ちゃん、いいのよ。こちらこそ、沙耶香がごめんなさいね」

 「ちゃんと自分の発言に気をつけなさい。沙耶香はまだ子供なんだから、分からないのは当たり前だろう」

 私はまた、偽りの笑顔を作る。これじゃあまるで、友里香さんもお父さんも沙耶香ちゃんの味方で、私は一人ぼっちのようだ。世の中は理不尽だな、と思う。
 “子供だから” って何? 私も高校一年生なのだから、まだ子供だ。それなのに何故、私だけが否定されなければいけないの――? そんな悲しみと疑問が、一気に溢れ出てきた。


 「愛海ちゃん、大丈夫? 着いたよ」

 友里香さんの声が聞こえて、ハッとする。いつの間にか、お母さんが眠っているお墓へ着いたようだ。ここへ来るのは、今年が始まった際に訪れたとき以来だろう。

 「……ここが、七海(ななみ)さんのお墓?」

 「ああ……ごめんな、友里香も沙耶香も連れてきちゃって。友里香は辛いよな」

 【雪白七海】

 そう書かれたお墓が私の視界にすぐ入った。私は雪白という苗字や、お母さんの名前が好きだった。冬の冷たさを思い浮かべる苗字、夏を感じられる名前だから。
 どうして、どうして――。一番辛いのは実のお母さんが亡くなって、新しいお母さんや妹ができて。お父さんにも愛されていないこの私だと思う。
 ――だめ、笑顔を作らないと。私はどんなときでも、笑顔の水坂愛海なんだから。

 「じゃあ愛海は花束を置いてくれるか? お父さんたちは水を持ってくるから」

 「……うん、分かった」

 私はお母さんのお墓に、持ってきた赤いカーネーションの花束をそっと添えて、お母さんへの気持ちを心で唱える。
 ――お母さん、何もできなくてごめんね。私、お母さんに何もしてあげられなかった。さっきの人はね、新しいお母さんと私の妹だよ。でもね、私辛いの。
 そう思った途端、私は涙が溢れ出てくる。

 ――いつも笑顔でいなきゃ、みんな離れていっちゃうでしょ? それに “ずっと笑顔でいる” 約束。お母さんとの約束は、絶対守る。でもお母さんの前では泣いてもいい……?
 涙がポタポタと頬を伝う。今までの笑顔だった私はどこかへ行ってしまった。私はきっと、お母さんの前では本当の私を見せられるのだろう。

 「……水坂?」

 「なつ、たにくん……?」

 夏谷くんが両手で花束を持って、私のことをうっすらな瞳で見つめていた。何が起きたか、分からない。
 ただ夏谷くんは驚いていて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 「……水坂、何でここに」

 「夏谷くん、こそ」

 数分間沈黙が続いたが、夏谷くんが口を開いた。

 「俺は、両親とかの墓参り」

 「……ご両親?」

 私が聞き返すと、夏谷くんはこくりと頷いた。夏谷くんのお母さんとお父さんは、もう亡くなっていたんだ。
 何があったのか聞きたいけれど、喉に言葉が詰まって言えなかった。何か、聞いちゃいけないようなことな気がするから。
 ――それに、 “とか” ってどういう意味だろう。

 「わ、私は……お母さんの、お墓に」

 「……そっか。あ、姉ちゃんが今度家に上がってって言ってたよ。水坂に伝えとけって」

 「……あ、ありがとう」

 ――最悪だ、泣き顔見られた……っ。
 私はいつもどんなときでも笑顔だったから、夏谷くんは驚いただろうか。
 私は人前で泣くなんてことなかったのに。これじゃあお母さんとの約束、守れていないよね。

 「じゃあ、俺はここで。じゃあな、水坂」

 「……うん、夏谷くん、じゃあね」

 私は今日も、“またね” と言えなかった。いつになったら言えるようになるのだろうか。
 いや、もう “またね” “また明日” という日は永遠に来ないのだろうか。そう考えると、私は胸が苦しくなった。

 「愛海、お待たせ。花あげてくれたのか」

 「……うん、添えといたよ」

 「ああ。沙耶香、水汲むの手伝ってくれてありがとうな」

 「うん! パパ、どういたしまして!」

 私には感謝を言わないのに、沙耶香ちゃんには “ありがとう” と言った。
 お父さんにとって私は、何なのだろうか。本当に大切な娘だと思ってくれているのだろうか。
 ――お母さん、辛いけど、私頑張るね。私が我慢すれば、みんな幸せになるもんね。またね、お母さん。

 不思議なことに、お母さんには心のなかで “またね” と言えた。もう会えないことは分かっているのに、会いたいという願望を心のなかで唱える。
 お母さんのお墓にただ水をかけただけなのに、涙を流しているように見えた。


 家に帰って、私は部屋のベッドに勢いよくダイブした。
 ――お母さんに会いたい。もっと甘えたかったな。
 どうして私だけが不幸になるのだろう、と思ったけど。お母さんの方がきっと辛かった。
 私は学校があって毎日お見舞いに行けなかった。それを今は後悔している。こんな風になるのなら、学校なんてサボってお母さんに会いに行けば良かった。

 戻らないのは分かっているけれど、お母さんがいた頃に戻りたい。それが無理なら、お父さんと二人きりの生活をしていたときに戻りたい。それも無理なら、消えてしまいたい……。
 そんなことを考えていると、ピコンとスマートフォンから音が鳴った。夏谷くんからの連絡だった。

 『水坂、今日はごめんな。急に墓参りで話しかけちまって』

 そんな一文が送られてきていた。
 私は夏谷くんがいないのにふるふると首を横に振って、文字をカタカタと打った。

 『ううん、こちらこそ泣いちゃっててごめんね。話しかけてくれて嬉しかったよ』

 すぐに入れると、数秒で既読がついた。私は何も意識していなのに、口がニヤけてしまう。
 夏谷くんと画面越しでも、やり取りできることが嬉しくて。恋の力は偉大だなぁと自分でも思う。

 『ありがと、水坂。あのさ、今週の土曜って空いてる?』

 『うん、空いてるけど……』

 『二人でどこか行かない?』

 「へっ!?」と声が漏れる。夏谷くんから、遊びの誘いが来るなんて思いもしなかったから。
 今日、泣いたことが嘘のように気持ちが舞い上がっている。
 何て返せばいいのかな。『行きたい』『いいよ』『行こう』どれも当てはまらない気がした。どうしよう……と返信に迷っているときに、また夏谷くんから連絡が来た。

 『もちろん嫌だったらいいんだけど、遠出してみたいなって思って』
 
 『ううん、嫌じゃない』

 『本当に? 良かった。じゃあまた改めて連絡する』

 夏谷くんと二人で出かけるなんて、夢みたいだ。これって、デートといっていいのだろうか。
 男の子と出かけるなんて初めてだから、今から緊張してしまう。

 「……嬉しい、なぁ」

 「愛海、いつまでスマホ見てるんだ?」

 声がしてドアの方を見ると、お父さんが部屋に入ってきていた。
 お父さんの怒っている表情を見ると、私は声が出なかった。

 「……お父さん、ノックくらいしてくれたらいい、のに」

 「いや何回もしたんだが、愛海の反応がなかったから。勝手に部屋に入ったのはすまない」

 「……ううん、大丈夫だよ。私こそごめんなさい」

 私は俯きながら謝った。私だけが謝るのは慣れているけれど、やはり虚しい気持ちになる。
 けれどこれに関しては私が悪い、だろう。夏谷くんとの連絡に夢中になってお父さんが来たことに気づかなかったから。

 「愛海、嬉しいって言ってたけど何かあるのか?」

 「……今週の土曜日に、友達と出かけるの」

 「どこに? 誰と?」

 お父さんに質問攻めされて、私はどう答えようか迷ってしまった。異性と二人で出かけるなんて言ったら、きっと恋人だと思われてしまう。
 そうすればきっと、夏谷くんにも迷惑をかける。けれど同性と出かけると言ったら嘘を吐くことになるのだ。
 ――どうしよう。

 「男なのか?」

 「……ううん、女の子だよ。クラスメイトの二人。ほら、この前沙耶香ちゃんが具合悪かったときに遊びに行った子たち」

 「そうか、ならいいんだが。あんまり暗くならないうちに帰りなさい」

 そう言うと、お父さんは私の部屋を出ていった。嘘を吐いてしまった罪悪感はあるが、夏谷くんに迷惑をかけるよりかはマシだ。
 だって、私はいつも嘘を吐いている。嫌われるのが怖くて、どんなときでも笑顔でいる。それが水坂愛海なのだから。

 ――これでいいんだ、これで大丈夫なんだ。
 私は、そう心で自分に言い聞かせた。
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