大好きなあなたに、笑顔でまたねと言えますように
 念入りに髪をとかして、前々から準備していた洋服を着る。鏡を見ると、今までにはないくらい生き生きとした自分の顔が写っていた。今日が特別な一日になるといいな、と思う。
 今日は、待ちに待った夏谷くんとお出かけする日。

 「おはようございます、友里香さん」

 「あらおはよう、愛海ちゃん。まだ六時よ。学校もないのに今日は随分と早起きなんだね」

 「……はい、ちょっと友達と出かけてきます」

 友里香さんが用意してくれていたサンドイッチを口に運ぶ。
 いつもなら吐き気が込み上げてくるけれど、今日はスルスルと喉が通った。美味しい、と思ったのは久しぶりだろう。

 「なになに、愛海ちゃん、もしかして彼氏?」

 「え、えっと、違います。この前出かけた女の子の友達です」

 「ふーん、そっかぁ」

 そう言うと、友里香さんはニヤニヤとした笑みを浮かべていた。何だか勘付かれている気がするけれど、私は気にせず食事をした。
 友里香さんと普通に会話するのも初めてかもしれない。いつもいつも嘘ばかり吐いているから。

 「ご馳走様でした、じゃあ行ってきます」

 「行ってらっしゃい、気をつけてね」

 小さいバッグを肩に掛けて、お気に入りのスニーカーを履いた。花菜ちゃんや遥香ちゃんと出かけたときに買った、白い雪結晶が描かれているスニーカー。
 このスニーカーを履くと幸せな未来へと導いてくれる気がするから。
 今日の洋服は、小さいリボンがついている紺色のワンピース。いつもなら背中まである長い髪をポニーテールにしているが、今日はハーフアップにしてみた。いつもと雰囲気が違うから、似合っているか心配になる。

 ――えっと……この電車で合ってるよね。
 普段そんなに乗ることのない電車に乗って、私は待ち合わせ場所へと向かう。
 電車に揺られながら迎える朝は、新しいスタートが待っている気がした。

 「あっ、水坂! おはよう」

 待ち合わせ場所に辿り着くと、夏谷くんがもう待ってくれていた。
 夏谷くんの私服は白色のトップスに、ブルーのパンツ。黒色のキャップもアクセントになっていてとてもお洒落だ。
 ――夏谷くん、かっこいいな……私、こんな人の横歩いていいのかな。
 そもそもどうして夏谷くんは私を誘ってくれたのだろう、とふと疑問に思った。

 「水坂? どうしたの、大丈夫?」

 「へっ!? あ、私は大丈夫だよ、ごめんねっ、待たせちゃった?」

 今になって楽しみよりも緊張が勝つ。足がガクガク震えるくらいに。
 今日、恥ずかしいところを夏谷くんに見せないようにしないと、と心のなかで決心する。

 「全然待ってねーよ、じゃあ行こっか」

 「あ、う、うん」

 夏谷くんが歩き出したので、私もその後に後ろから着いていった。
 こんなにかっこよくて綺麗な人の隣に行けるほど、私は可愛くもないし、何も持っていないから。
 ――本当に、夏谷くんはかっこいいなぁ。
 好きだと自覚してからもっと夏谷くんが輝いて見えるようになった。

 「あっ、水坂、こっち歩いて」

 「えっ? な、なんで?」

 「いーから。車道側だと危ないだろ」

 私が車道側を歩いていたけれど、夏谷くんが代わってくれた。私はささっと歩道側へと移動する。
 こういうさり気なく優しくしてくれるところが夏谷くんの良いところだと思う。たぶん私は、こういう夏谷くんの優しさに惚れたんだ。

 「あ、ありがとう」

 「……ったく、水坂は危なっかしいから。今日は俺から離れるなよ」

 「えっ、ご、ごめんなさい……」

 「だから、謝らなくていいんだってば。すぐ謝る癖直したほうがいいよ、水坂は何も悪くないんだからさ」

 夏谷くんに正論を言われ、私は言葉を発せなくなる。たしかに私は、すぐ謝る癖があると思う。だってそうしないと、許してくれないかもしれないから。
 私が悪くなくても一応謝っておけば、誰も損はないし、謝られた側は気持ち良いと思うから。でも夏谷くんは違った。私の悪いところを指摘してくれる。これが本当の優しさ、だと思う。

 「……これ」

 「……水族館の、チケット?」

 「そう、今日どこ行くか言ってなかっただろ。俺バイトしてるんだけどさ、店長にチケット二枚貰って。水坂と行きたいなって思ったから」

 夏谷くんがバイトしていたなんて、とても意外だ。……そんなことより、私と水族館に行きたいと思ってくれていたこたが何よりも嬉しかった。それと同時に、どうして私を誘ってくれたのか疑問に思う。

 夏谷くんは男子の友達も多いし、女子からも人気が高い。可愛い子や明るい子、たくさんいる。それに比べて私は暗いし、いつも偽りの笑顔を作っているのに。
 ――だめだよね。せっかくのお出かけなんだから、楽しまないと。

 「どうかな? 水坂、水族館好きかな、って」

 「……うんっ、好き。わ、私も、夏谷くんと行きたいなって」

 「本当? すごく嬉しい!」

 いつもクールな夏谷くんが、子供みたいな無邪気な笑顔を見せた。ドクン、ドクン……と私の心臓が早くなっているのが分かる。
 きっとまた、私は別人のように顔を真っ赤にしているのだろう。夏谷くんの笑顔が、あまりにも素敵だから。
 まだお出かけが始まったばかりなのに夏谷くんの新たな一面を知れて、私は嬉しいと思った。

 「やっぱ土曜だから結構人が多いな」

 「……そうだね」

 都内の水族館へ向かうと、やはり大勢の客がいた。私は人が多いのが苦手だった。何故だか呼吸が荒くなってしまうし、押し潰されてしまいそうで、怖くなるから。
 もしかしたらパニック障害、というのかもしれないけれど、認めたくなかった。
 ――どうしよう、怖い、大丈夫かな……っ。

 「水坂、はぐれないように捕まってて」

 「……えっ?」

 「だから、はぐれたら見つけるのに大変だろ。ここ掴んでて。強く握っちゃって大丈夫だから」

 夏谷くんは私の右手を自分のシャツの裾へと持っていった。異性の服だから抵抗があるけれど、それよりも恐怖が勝って私は夏谷くんの服の裾をぎゅっと強く掴んだ。
 ――恥ずかしい。これじゃあまるで、私が夏谷くんの彼女みたい。
 浮かれてしまっているのは分かるけど、どうしても今だけは幸せを感じていたかった。

 「よし、中入れた。こうして見ると人少なく見えるな」

 いつの間にか夏谷くんはチケットを受付で出してくれていて、私達は水族館のなかへ入っていた。
 スムーズに物事を進める夏谷くんのことを尊敬するけれど、途端に何もしていない自分が恥ずかしくなる。

 「水坂、飲み物とか大丈夫? 疲れてない?」

 「……うん、大丈夫だよ。夏谷くんありがとう」

 夏谷くんは色々と心配してくれたが、これは普通なのだろうか。
 どこか異性と二人きりで出かけることに慣れている、そんな気がした。気の所為であってほしいと願うけれど。
 ――夏谷くんがただただ気遣いが上手で優しいだけだよね。楽しまないと。

 「じゃあ近くから見て回ろうか」

 「うん……!」

 未だに私は夏谷くんの服の裾を掴んだまま、歩き出した。私はいつにも増して心臓が飛び出そうなくらい緊張している。
 夏谷くんは私とのお出かけなんて緊張しないだろうな、と寂しくもなる。

 「なあなあ水坂、この魚なんていうか知ってる?」

 「へ? わ、分かんない」

 「ダンゴウオだよ。団子とか、金平糖に似ていることが由来なんだ」

 「……へえ、目とか口がかわいいね」

 小さい魚だけど、目と口がちゃんと見えてとてもかわいらしかった。
 けれどそれよりも、夏谷くんがどうしてこんなに魚に詳しいんだろう、と疑問に思った。水族館が好きなのだろうか。

 「こいつ水坂に似てない? 大きいし、でかいし」

 「そ、それマグロじゃん。しかも大きいとでかいって意味一緒だし。私そんなに大きい?」

 「ははっ、うそうそ。かわいいじゃん、マグロ」

 夏谷くんはそう言いながら、額にある汗を手で拭っていた。私のことをからかっているのだろうか。
 けれど夏谷くんが楽しんでいるところを見ると、私も自然と笑顔になれる。だから夏谷くんが笑顔なら、私は何でも良かった。
 ――夏谷くん、マグロのことかわいいって言ったよね。それって……。
 私のことをかわいいと思ってくれている、のだろうか。変に期待してしまい、頬が熱くなる。

 「水坂、大丈夫?」

 「う、うん! この魚、夏谷くんに似てるよね。ブサカワ、みたいな」

 話題を振ると、夏谷くんは突然口を閉じてしまった。
 わざとブサカワって言ったら、夏谷くんはまた笑顔になると思ったのに。本当に傷ついてしまったのだろうか。

 「な、夏谷くん……? ごめんね、かわいいと思って……」

 「え? あー……ごめん、ちょっと考え事してた」

 明らかにいつもの夏谷くんではないような気がした。初めて出会った日の帰り道で、『消えたいって思ったことある?』と聞かれたときと、同じ顔をしていたから。
 でも触れてはいけないような気がして、私は何も聞かずにいた。

 「水坂、そろそろ昼ご飯食わない? 腹減ってさ」

 「あっ、私も、お腹空いてた」

 「じゃあレストラン行こうか」

 くるりと背を向けて、夏谷くんは歩き出した。そのはずみに、私は掴んでいた夏谷くんの裾を離してしまった。
 けれどもう人混みではないし、『もう一度掴みたい』だなんて言えるはずがない。私は夏谷くんの少し後ろで一歩ずつ歩いた。

 「このレストランのさ、オムライス美味しいんだ。アザラシの絵が描かれててさ」

 「……夏谷くん、来たことあるの?」

 つい気になって、質問してしまった。もし聞かれたくないことだったらどうしよう、と思う。けれどやはり気になってはいた。
 リードしてくれるし、魚のことに詳しいし、ここのレストランのこともよく知っているから。

 「数年前に、一度だけ。それっきりだよ」

 夏谷くんは短い言葉で、そう答えた。
 お墓参りのときと同じ、泣きたそうな表情(かお)をしながら。


 「よし、じゃあ食べようか。いただきます」

 「……いただきます」

 椅子に座り、私はスプーンでオムライスを口に運ぶ。かわいらしいアザラシの絵がケチャップで描かれていて、とても食べるのが勿体なく感じた。
 ――ふわふわ口のなかでとろける感じ。美味しい。

 「な、美味しいだろ、これ」

 「……うん、とっても美味しい。教えてくれてありがとう、夏谷くん」

 私がそう言うと、夏谷くんは食べる手を止め、俯いてしまった。

 「夏谷くん?」 

 「……いや、ごめん、何でもない。水坂は鈍感すぎるな」

 ――どういう意味だろう。
 何故だか夏谷くんは、少しだけ頬が赤くなっていた。熱でもあったらどうしよう、と思ってしまう。私が変なことを言ってしまったのだろうか……?
 疑問に思うが、私は美味しいオムライスをパクパクと口に運んでいった。


 「夏谷くんいいよ、自分の分は自分で払うよ」

 「いや今日は俺が誘ったんだし、払わせて」

 「ええっ、い、いいの……?」

 私達が食べ終わってお会計するときに、夏谷くんが奢ってくれた。
 もちろん悪いと思うし、私は自分の分は自分で払うと言ったけれど、それでも夏谷くんは私の分までお金を出してくれた。

 「ご、ご馳走様です」

 「いいえ。じゃあ次はあっち行こ」

 そう言いながら、私達は外の方へと向かった。夏谷くんが何か見たい生き物がいるのかなと思うと、わくわくが止まらなかった。
 好きな人の好きなものは何でも知りたいと思ってしまう。

 「……うわあっ、かわいい、ペンギン?」

 「そ、なんか水坂好きそうだなって。すき?」

 「うんっ、すき」

 はしゃぎながら質問に答えたけれど、何だか恥ずかしくなる。
 夏谷くんの顔を見て、『好き』だなんて言ってしまったから。私、また顔真っ赤にしているのだろうか。

 「……いっぱいいるな」

 「ね、二十匹くらい? すごく、かわいい」

 私は戯れているペンギンたちを見た。ペンギンは水族館のなかの生き物で、一番と言っていいほど好きだ。ちょこちょこ小股で歩くところとか、一生懸命泳いでいる姿がかわいいから。
 ――こんなに癒やされたの久しぶりだ。

 「あ、あいつ水坂に似てね? なんか仲間に入れてない感じ」

 「ええっ、そうかなぁ、確かに大人しそうだけど……」

 「ははっ、まじで面白いな、水坂って」

 やはり夏谷くんの太陽のような笑顔を見ると、こっちまで嬉しくなる。笑顔を作らなきゃ、と思わなくても自然と笑顔になる。夏谷くんの笑顔は魔法のようだ。


 「そろそろ出る?」

 「そうだな、もうこんな時間か」

 いつの間にか水族館を満喫していて、夕暮れ時だった。
 太陽がゆっくり沈み始めている。私達は帰宅することにした。

 「あ、ちょっと待ってて」

 夏谷くんが急に走り出したので、私は近くの椅子に座って待つことにした。今日あった出来事を鮮明に思い出す。
 最初は緊張気味だったけれど、夏谷くんのおかげでとても楽しめたし、自然と笑顔になれた……気がする。夏谷くんが誘ってくれて本当に良かった、と思う。

 「ごめん、お待たせ」

 夏谷くんはそう言いながら、小袋を渡してきた。

 「プレゼント、気にいるか分かんないけど」

 「……えっ、プレゼント!?」

 私は動揺してしまったが、とりあえず夏谷くんのプレゼントを受け取った。
 そのとき、私と夏谷くんの手と手が触れ合った。思わずドキッ、としてしまう。

 「……ペンギンの、キーホルダー?」

 「水坂、目を光らせてペンギンのこと見てたからさ。好きなのかなって思って。今日一日付き合ってくれたお礼、っつーことで」

 嬉しくて、思わず涙が溢れてしまう。笑顔なんて気にする暇がなかった。少しだけ眉が上がっていて、怒った顔をしたペンギンが可愛らしい。
 ただただ純粋に好きな人にプレゼントを貰えたことが嬉しかった。

 「……え、水坂、ペンギン好きじゃなかった? ごめん」

 「ち、違うの、嬉しくて……! 夏谷くんありがとう、一生大切にするね」

 言ってしまってからハッ、とする。一生だなんて、重かっただろうか。
 たかがプレゼントで一生大切にすると言われて、夏谷くんは引いただろうか。
 ――でも、好きな人からのプレゼントは、本当に嬉しいから。

 「……水坂、その笑顔ずるい」

 「……へ?」

 「――水坂のことが好きだ、俺」

 思考が止まるかと思った。
 今、夏谷くん、私のことが好きって言ったの?

 「えっ、な、夏谷くん、好きって」

 「俺、前から水坂のことが好きだ。その笑顔が、大好き。――付き合ってください」

 夏谷くんが私なんかのことを好きになってくれるなんて思いもしなかった。いや、それよりも、好きな人と両思いになれたことが信じられないくらい、嬉しかった。
 それに笑顔を好きと言ってくれて、嬉しい。先程私が夏谷くんに向けた笑顔は、作ろうと思って作った笑顔じゃないから。きっと夏谷くんは、本物の笑顔の私のことを好きになってくれた。

 「……私も、夏谷くんのことが、好きです。よ、よろしくお願い、します」

 「……本当に? 付き合って、くれるの?」

 私に差し出してきた夏谷くんの手を握りながら答えを言うと、夏谷くんは目をぱちぱちさせている。
 私はこくこく、と首を縦に振った。これが精一杯、今できることだった。

 「……嬉しい。夢みたい。これからよろしく、愛海」

 「え、ええっ、今、私の名前――」

 「麗太、でいいから。これから名前で呼んでほしい」

 「……うん、麗太、くん」

 世界中の時計の針が、止まっているような気がした。
 過ぎゆく人が見えないくらい、ここは二人だけの世界。
 眩しくて暖かなオレンジ色の夕日に照らされながら、私達は微笑みあった。
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