大好きなあなたに、笑顔でまたねと言えますように

第三章 わたしを変えた恋

 「ただいま」

 今日は本当に、夢のような一日だった。まさか夏谷くん――麗太くんから告白されると思わなかったから。まだ胸がドキドキしているし、付き合った、という実感が沸かない。

 「おかえり、愛海ちゃん。お父さん、愛海ちゃんが帰ってきたわよ」

 「愛海お姉ちゃん、おかえりなさい!」

 ――今日はお父さん、もう帰ってきてるんだ。
 よりによって久しぶりに一日を楽しめた日に、お父さんと顔を合わせなければいけない。
 前までだったらお父さんと話すのが唯一の楽しみだったのに、今は家に帰るのがこんなに苦痛だなんて。

 いつもと同じように、お母さんの写真にただいま、と言おう――。そうすれば少しは、笑顔でいられるようになるから。
 そう思ったが、私は頭の中が真っ白になった。玄関にお母さんの写真がなかったから。

 「ねぇ、ここにあったお母さんの写真はどうしたの?」

 「……お母さん? ああ、七海(ななみ)の写真か? 俺と友里香が片付けたんだ」

 え?
 片付けた……? 捨てたってこと……?
 私は頭が混乱していた。途端に吐き気と怒りが込み上げてくる。

 「愛海ちゃん、その代わりね、今度四人で撮った写真を飾ろうと思って――」

 「……でよ」

 「え?」

 「……ふざけないでよ!! お母さんの写真、何で捨てたの!? 私の唯一の宝物だったのに!!」

 だめ、お母さんと約束したんだから、笑顔でいないと。
 “どんなときでも笑顔でいる水坂愛海” を演じていないと。
 分かってはいるけれど、今まで我慢してきた分、気持ちを吐き出すことが止まらなかった。

 「友里香さんが言ったの? 自分が今のお母さんだから? ずっとお母さんの写真を飾ってたから嫉妬したの? ……言っておくけど私は、友里香さんのことお母さんだと思ったことないし!!」

 「愛海、いい加減にしなさい」

 パチン……! と、大きな音が鳴り響いた。私の頬をお父さんに思いきり叩かれる。
 けれど今は痛いという感情よりも、怒りが抑えきれなかった。最低なことを言っている自覚はあるが、止まらない。

 「愛海、友里香や沙耶香だって、お前の家族だ。ちゃんと考えなさい、そんな言い方はないだろう」

 「……沙耶香ちゃんは私ともお父さんとも血繋がってないでしょ? 妹なんて思えるわけないじゃない、私は一人っ子なんだから!!」

 友里香さんはお父さんと再婚する前、結婚した男性がいた。沙耶香ちゃんは友里香さんとその人との子供だ。けれどその人は不倫をして、友里香さんはシングルマザーになったらしい。
 だから私やお父さんとは一切血の繋がりがない。そんな子を妹、なんて思えるわけない。今までずっと一人だったのだから。

 「沙耶香大丈夫よ、泣かないで」

 「ほら、愛海のせいで沙耶香が泣いちゃったじゃないか。謝りなさい」

 沙耶香ちゃんは私が怒鳴ったせいか、その場で泣き出してしまった。大きい泣き声が鼓膜を破るようにガンガン鳴り響く。
 ――うるさい。お父さんも沙耶香ちゃんも友里香さんも。……私が全部悪いの?

 「……嫌だ、私は悪くないから。謝らない」

 「愛海、いつからそう親に反抗するようになったんだ。いい加減に――」

 「親に反抗……? 私がいままでどれだけ我慢してきたのか分かってないの!?」

 涙が止まらないが、そんなのお構いなしに私はお父さんに反論した。
 ……たぶん、お父さんに言葉を言い返すのは初めてだ。いや、喧嘩するのも初めてだと思う。

 「お父さんはもう、お母さんのことを忘れちゃったの?」

 「……忘れるわけ、ないじゃないか。七海のことは今でも大切なんだから」

 「じゃあどうして!? きっとお母さん、天国で悲しんでるだろうね。新しい奥さんもできて、子供もいて。お母さんさ、死に際に私に言ったんだよ、 “ずっと笑顔でいてね” って。だから私はいつもいつも約束を守ろうと必死だった。でも無理だよ、こんな家族なんかいらない……!」

 我慢の限界を通り越して、私は言葉がスラスラと出た。言い返したって無駄なのは分かっている。だってお父さんが大切なのはお母さんでも私でもない、友里香さんや沙耶香ちゃんなのだから。
 でも辛くて、悲しくて、寂しくて、醜くて。心の底からこの家庭を嫌っていた。
 ――私の存在が消えればいいのに。

 「……ごめんなさい、さよなら」

 私は気がついたら玄関を飛び出していた。沙耶香ちゃんの泣き声、お父さんや友里香さんの私を呼び止める声が微かに聞こえる。それでも私が振り返ることはなく、そのまま道路を走っていた。
 ――どこに行けばいいんだろう。

 初めて家を飛び出してきてしまった。家出する機会なんて、一生ないと思っていたのに。初めて家族に反抗したし、酷いことをたくさん言ってしまった。今になって後悔する。
 ……誰も悪くないのだから。ただお母さんの死のせいでこうなってしまった、運命が悪い。

 いつもの横断歩道へ足を運んだ。足が重くて、思うように前に進まない。夜の町は自分が住んでいるところではないようなもやもやした暗闇に包まれていて、孤独な気持ちになった。
 私は暗闇のなか、ただただ下を向いて歩き続けていった。よく信号を見ていなかったから、赤信号なのを気づかずに横断歩道を渡る。すると車が私の目の前まで来ていた。

 ――轢かれる……っ!
 そう思った瞬間、私は誰かに突き飛ばされた。

 「おい、気をつけろよ!!」

 「すいません、気をつけます」

 運転手の怒鳴り声、私を突き飛ばしてくれた人の声がうっすらと聞こえる。今の状況が呑み込めず、ただただ私は道端に座っているだけだった。
 ……ただ、私を突き飛ばしてくれたその人の声は、聞いたことのある声だった。
 ――私の大好きな人の、声。

 「危ないじゃん、俺がいなかったら轢かれてたよ。こんな夜遅くに何してんの、愛海」

 「……えっ、麗太くん」

 ――どうして、麗太くんがここにいるの……?
 私を突き飛ばしてくれたその人は、麗太くんだった。驚きが止まらない。
 麗太くんがいなかったら私は轢かれていたという怖さも、麗太くんの身に危険が起きてまで私のことを救ってくれた優しさも。

 「れ、麗太くん、こそ」

 「俺は近くのコンビニに行く途中」

 この近くのコンビニは、横断歩道とは反対方向なのだけれど。
 夜道にふらふらと歩いている女子高校生を見て、駆けつけてくれたのだろうか。

 「……まだ真夜中って訳じゃないし、ちょっと公園で話そう」

 麗太くんにそう言われ、私達はこの近くの公園のベンチに座った。数分間、沈黙が続いて気まずい雰囲気。私から、話を切り出したほうが良いのだろうか。
 麗太くんになら、話したいと思える。そう思えたのは初めてだった。私は思いきって口を開く。

 「あっ、あのさ、麗太くん。さっきは助けてくれてありがとう」

 「ん、それはもちろん。俺が助けなきゃ轢かれてたし。……何が、あったの」

 「――私、家出してきたの」

 麗太くんは先程まで俯いていた顔を私の方に向けた。麗太くんの透き通っているビー玉のような瞳に見つめられ、ドキッとしてしまう。今はそんな場合じゃないのに。

 「今まで抱えていた不満を、家族……に、ぶつけちゃって」

 私の家庭のことを麗太くんに全て打ち明けた。本当のお母さんは亡くなっていること、今は再婚して新しいお母さんと妹がいること。
 そしてずっと我慢していて、お父さん達に不満を吐き出してしまったこと。
 思い返してみれば、私たくさん酷いことを言った。やはり私だけが、悪いのかもしれない。今だったら麗太くんの言っていた “消えたい” の意味がわかる気がする。

 「……そっか、話してくれてありがとう。辛かったよな……」

 「……どうして、麗太くんが泣いてるの」

 その透き通ったビー玉のような瞳から光が消え去っていて、何粒もの涙がこぼれていた。私はもう泣いていない。ただただ家族に怒りを持っているだけ。
 ――だからどうして、関係ない麗太くんが泣いているの……?

 「れ、麗太くん……?」

 「……俺もさ、実は――」

 「愛海ちゃん!!」

 麗太くんが何か話そうと口を開きかけたとき。友里香さんが私のもとへ走ってきているのが見えた。
 ――どうしよう。友里香さんに、何て言おう。

 「愛海ちゃん、心配したんだよ。探したんだからっ……早く、帰ろう」

 「……私は友里香さん達のことを、家族だと思っていないから。心配したなんて、綺麗事でしょう? 私と血が繋がってないんだから」

 ――私、本当に最低だ。どんなときも笑顔でいる、水坂愛海は何処へ行ってしまったのだろう。途端、私がお父さんに言った言葉を思い出す。

 『きっとお母さん、天国で悲しんでるだろうね』

 悲しませているのはお父さんではなくて、私のせい。どんなときも笑顔でいなければならないのに、その約束を守れなかった。
 私はどんだけ心が汚れているのだろう。
 ――辛いよ……消えたい。

 「……あの、部外者の俺が言うのもあれなんですけど。もう少し、愛海さんの気持ちを聞いてあげてもいいんじゃないですか? お母さん、なら」

 麗太くんが立ち向かって、友里香さんに強い芯の太い声で言ってくれた。どうして私は冷静になれないのに、麗太くんは冷静になれるのだろう。
 それに私の問題で、麗太くんは関係ないのに。本当に優しい人だ。この人が私の彼氏なんだ――。

 私は後悔と嬉しさで涙が溢れてしまった。自分勝手な理由で家出した後悔、そして麗太くんが私の気持ちを友里香さんに伝えてくれた嬉しさ。
 私が今抱えている思いを麗太くんは見透かして、伝えてくれた。

 「愛海!」

 「愛海お姉ちゃん!」

 お父さんや沙耶香ちゃんが駆けつけてくれた。私のためにここまで探し出してくれて、心配かけて。私はどれだけ人に迷惑をかければ気が済むのだろう。
 ――本当の気持ちを、伝えなきゃ。
 麗太くんが傍にいてくれるなら、きっと大丈夫。

 「……わたし、辛かった。お母さんが、死んじゃってから、心に大きい穴が空いたみたいで。でもお父さんがいるから、わたしは生きることができていた」

 お母さんはいつも笑顔で、テレビを一緒に見て、漫画も読んで、苦手な勉強も手伝ってくれて、料理もして。
 そんなお母さんの存在が無くなってから、私は生きる意味が分からなくなった。

 「お父さんが再婚するってなったとき、本当は嫌だった。そりゃあお父さんの幸せを願ってるけど、私が、幸せじゃないから」

 でも子供は大人の言いなりになるしか方法がないから。私は言われるがままに、再婚を受け入れた。
  “嬉しい” という気持ちを呪文のように繰り返して、操られた人形のように、無理矢理そう思わせた。

 「私の中では、お母さんはお母さんしかいないの。妹もいない。なのに全部全部全部、崩れた。でもお母さんに言われた、 “ずっと笑顔でいてね” という約束。それは絶対に守ろうと思った。だから人前で笑って、嫌われないように合わせて。自分の気持ちが分からなくなっていった」

 自分が今何を考えているのか、何を思っているのか。気持ちがどんどん分からなくなっていった。
 頑張って笑顔を作って、無理してヘラヘラ笑って。毎日疲れていても、嫌われないように笑顔でいた。大切な人が離れていくことが恐怖になっていったから。

 「……お父さんは、私と二人じゃ不満だったんだよね? 私のこと、好きでもなんでもないんだよね。お父さんは、幸せな家庭を送りたかったんだよね。だから子持ちの女性を選んで結婚したんでしょ」

 すると友里香さんとお父さんは何も言わずにただただ立ち尽くしていた。図星、と言っているように。
 私はお父さんから愛されていると信じていた、心の何処かで。

 「……俺は、愛海のことを大切に思っている。大切に決まってるじゃないか」

 「え?」

 「いつも俺が夜遅くまで仕事で、愛海は平日も休日も一人。家事も全部任せて、お小遣いもあまりあげられなくて。愛海が苦しんでいると思っていた」

 お父さんは一粒の涙を流した。大人が泣くなんてこと、知らなかった。お父さんの弱音なんて初めて聞いた。
 お父さんの涙は、切なくて苦しくてでも温かい感情が込められている気がした。
 ――お父さんは、私のために再婚をしたの?

 「友里香と出会って、俺は友里香のことを本気で好きになった。愛海もお母さんや妹ができれば少しは幸せになれるかと思って。でもそれは七海のことを忘れたわけじゃない、今でもずっと愛してる」

 「……嘘、だよ。だってお母さんの写真、捨てたんでしょ?」

 それだけは絶対に許せないことだった。お母さんが亡くなってからずっと玄関に飾ってあった、あの写真。
 お母さんの最期の誕生日にプレゼントした花束を持って、笑顔でいる写真。あれだけは私の唯一の宝物だったのに。

 「捨ててないよ、愛海ちゃん。愛海ちゃんのお母さんの写真は、愛海ちゃんのお部屋に飾ってあるよ」

 思考が止まった。何も考えられずにいた。
 あの写真を捨てた訳ではなくて、私の部屋に置いてくれたの……?
 ただただ私の勘違いだったことに今更だけれど恥じらいを持った。

 「愛海ちゃんのこと、私は本当に愛してるよ、だって娘だもの。でも愛海ちゃんのお母さんは、七海さんしかいないよね。それは分かってる。愛海ちゃんが私のことをお母さん、って呼んでくれるまで待つから」

 「勝手に再婚をして愛海には辛い思いをさせて父親失格、だよな。本当にすまん。でも七海のことは忘れていないし、愛海のことは愛してる。それだけは本物の気持ちだから」

 「沙耶香もー! 沙耶香も、愛海お姉ちゃんのこと大好きっ」

 私は何処かで、お父さんだけでなく友里香さん、沙耶香ちゃんとすれ違っていた。
 みんなの本当の気持ちを知らずに一人で突っ走ってしまって。考えすぎてしまうところが私の短所なんだと思う。
 ――お母さん、ごめんね。今日だけは笑顔でいられない。涙が溢れて、止まらないから。

 「じゃあ俺は帰るわ。ご家族の邪魔しちゃ悪いから。口出してごめんな」

 「ううん、本当にありがとう。麗太くんすぐ謝るのやめたほうがいいよ、麗太くんはすごい優しいし、謝る必要なんてないんだから。むしろ私こそ巻き込んじゃってごめんね」

 「……それ、俺が言った台詞(セリフ)な。愛海の方が、いいやつだと思うけど。今を後悔しないようにしろよ」

 そういえば、あのとき麗太くんが何か言いかけていた言葉は何だったのだろうか。そして、麗太くんが涙をこぼしたとき、何を想っていたのだろうか。
 麗太くんの今にも逃げ出したいという切ない表情(かお)が、頭の中から離れなかった。
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