その溺愛、契約要項にありました?〜DV婚約者から逃れたら、とろ甘な新婚生活が待っていました〜

106襲撃者②【ラッセル視点】

事態の収束は一瞬だった。

おそらく刃物を持った男は一切剣の扱いや護身術程度の指南も受けた事が無いのだろう。

隙だらけだった。只々手にした刃物を振りかざして突進した男は、当然と言えば当然だが、アンジェリカ嬢を庇いながらも、それを軽く避けたディノの片手によって制圧された。


簡単に言えば、目標物を失って宙を切った手を捻られ、「ギャァ!」と大型の鳥の鳴き声のような叫び声を上げて刃物を取り落とすと、その場に取り押さえられた。


すぐさま取り落とした刃物を助太刀に入ったダルトンが拾い上げて確保するのを視界の端で確認して、ゆっくりと息を吐く。

同じタイミングで、目の前のディノに庇われたアンジェリカ嬢が腰が抜けたようにへたり込んだ。


すぐさま、数人の男達が近づいて行き、ディノから男の拘束を引き受けている。
当然自分も足が動き、彼らに近づいたものの、先にその一団に加わっていたダルトンに、「危ないから近づいてくれるな」と視線で牽制されて、肩をすくめる。


「アン……大丈夫か?」

「っ、ごめんなさい。まさか、ニコラスが……こんな事を……ごめんなさい」

仕方なしにディノとアンジェリカ嬢の方へ視線を向ければ、まだ震えながら顔を覆い泣く婚約者を、しっかり抱きしめて宥める、若いカップルの姿がある。


状況としては、とてもドラマチックではある。下手をすれば今日の演目の山場以上の出来事で、恐らくこの場面を見た他の観客達は、後半の観劇は物足りなくなってしまうかもしれない。
その証拠に、事態が収束してもその場から退いて行く者たちは少なく、皆がこの先の成り行きを興味深く思っていることはうかがえた。

どうやらこの事件は、アンジェリカ嬢のご実家の内輪でのトラブルが関わっているらしいから、あまり長い事混乱状態の彼女をここで泣かせて余計な事を言わせない方がいいだろう。

そう考えて、ゆっくり二人に近づくと、ディノの耳元に顔を寄せる。

「少し場所を変えた方がいい。ここでは随分人目につく」


「っ!」

すぐに弾かれたように顔を上げたディノが周囲を見渡し、状況を確認するとこちらに視線を戻し頷く。

ちょうどいいタイミングで、劇場の責任者だろうか、真っ赤なジャケットを羽織った50代ほどの男性がこちらに向かってくる。

「お怪我はございませんでしょうか⁉︎」

「あぁ、大丈夫だ。しかし突然の襲撃に彼女はまだ動転している。どこか休める場所はあるか?」


駆け寄ってきた男性に落ち着いた声音でディノが応じて、胸の中のアンジェリカ嬢の顔を衆目からそらすように抱き直す。

「っ、はいこちらに! 医務室がございます。治安警備隊も既に手配しておりますので、そちらでお休みになってお待ち下さい!」

すぐにスタッフ用のドアを指した男性は、そばに控えていた従業員の若い女性に「お連れしろ!」と指示をした。

女性従業員に誘われて、ディノに支えられたアンジェリカ嬢もなんとか立ち上がり医務室に消えて行く。

そのタイミングになって、また先程の襲撃犯が騒ぎ出した。

「オレは認めないぞ! 跡取りは俺だ! そんな他所の血筋より、正当な血の俺が選ばれるべきなんだ! アンジー! オレの可愛いアンジェリカ! 目を覚ませ!」

「やめろ!」「みっともないぞ!」「いい年して恥ずかしくないのか⁉︎」

ニコラスを押さえつけていた数人が、諭すように声をかけるものの、暴れる彼の目は血走ったままアンジェリカ嬢を凝視していて、とてもではないが正気ではない。


これ以上アンジェリカ嬢を動転させるのは忍びない。咄嗟に、ディノとアンジェリカ嬢の後方に立ち塞がると、ニコラスからアンジェリカ嬢が見えないように彼らについて行く。


「っくそ‼︎ 愚かだ! アンジーお前は愚かな選択をすることになるぞ! 俺から全て奪って幸せになれると思うなよ!」

スタッフ通路に入るまで、ニコラスの呪うような言葉が響いた。
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