その溺愛、契約要項にありました?〜DV婚約者から逃れたら、とろ甘な新婚生活が待っていました〜
76 幸せと怖さ【ラッセル視点】
♦︎♦︎
「ようやく愛妻と再会できたのに、朝早くから出勤させられた挙句、このように待たされてはたまらんだろう?」
適当に手元にある紙束を弄びながら殿下がうかがうようにこちらを見て来る。このところの殿下はエリンナ夫妻の姿を見てからというもの、何か引っかかるものを感じるのか、ティアナの事を聞いてくる事が多い。
「リドック・ロドレルの事は聞けたのか?」
はっきりとそう問われて、俺は肩を竦めて苦笑する。
「まさか……昨日の帰宅時間と今朝の出勤時間をお考え下さい」
「はは、それもそうか、すまない」
すぐに考えに至った殿下も、苦笑ぎみに肩を竦める。
「まったく、新婚夫婦の会話もままならないこの状況は健全ではないな」
そう言って手にした書類を執務机に放り投げた殿下は大きく息を吐く。
視察に出ていた間に溜まった公務を朝から急ピッチで片付けていたにも関わらず、ここにきて急に手持無沙汰になったのは、この先一番手のかかると目していた決裁文書がどこかで止まっているらしくまだ上がって来ていないのだ。
故にできてしまったこの空白の時間……今日はなるべく早く帰宅したい自分にとっては、本当に煩わしい時間である。恐らく殿下もそれを察してくれた上で話を向けてくれているのだろう。
「できれば今夜聞きたいと思っていますが、この感じでは難しいかもしれませんね」
諦めを込めてそう呟けば、殿下がイライラしたように机上を指で叩く。
「まったく、たっぷり時間はあったはずなのに、まだ上がって来ないというのはどういうことだ……」
「仕方ありません。もともと出来上がっていたのに、昨日になって議会で急な方針転換がなされたのですから」
なだめるようにそう告げると殿下は大きく息を吐く。
エリンナの話がどの程度深刻だったのか、それが分れば、彼女が俺に声をかけてきたことが、殿下に対する当てつけが大きいのか、それとも本当に友を想っての事だったのかが分かるからだろう。
自分とはまた違う方向で殿下も気になっているらしい。
「お前は、俺を女々しいと思うか?」
不意に、意を決したようにそう言った殿下はどこか気まずげに目を逸らして、向い側の壁に視線を向けた。
「どうされました? 急に」
普段快活で、さっぱりとした性格をしている分、ことエリンナの事が関わると彼がこうなってしまうのは、長い付き合いの中で分かってはいるから、驚きはしない。一度吹っ切った気持ちが再燃していることに彼が戸惑っていることもなんとなしに察知していたため、ここは吐き出させたほうがいいのだろうと判断して、聞く姿勢を見せると、彼もその空気を読み取ったのか、机上に頬杖をついた。
「今回の事で、意外にも彼女を忘れられていないことに、自分でも愕然としたんだ。もういいだろう、と自分で自分に言ってやりたいくらいだ」
拗ねたようなその言葉に、「そうですね」と頷く。
「確かに、私ももう随分吹っ切れられたと思っていたので意外でした。でも、考えてみれば無理もないと、理解できます」
そう告げて殿下を見れば、彼は意外そうな顔でこちらを見上げているので肩を竦めて見せる。
「俺も、同じですから。諦めて……忘れたと思っていて、それなのに彼女を目の前にしたら、やはり未練を捨てきることはできませんでした」
あの夜、誰もいない薄暗い庭で、婚約者に対して毒づいている彼女の本心を知るまで、俺の中では彼女は完全に諦めた手の届かない存在だったのだ。それなのにたったあれだけのことで、驚くほどに気持ちが再燃した。
俺にとって幸いだったのは、ティアナ自身がグランドリーから離れたい気持ちが強かった事で、状況がこちらに都合がよい方向に好転した事だ。彼女が怪我を負う事こそ本望ではなかったが、それでも今幸せなのは、単に運が良かったからだと言える。
対する殿下は、彼を取り巻く状況も、相手であったエリンナの決断も全て彼の想いに反することだ。
気持ちの向ける先が見つからず、くすぶっていたのも無理はないように思う。
「意外だな、お前にそんな人がいたのか?」
驚いた様子で問うてきた殿下に、頷いてみせると、殿下は一度言葉をのみ込むようにして、意を決したように口を開く。
「それは……結局どうやって忘れたんだ?」
どうやら彼は、俺の忘れられなかった人=ティアナとは結び付いていなかったらしい。
その答えを探すような、すがるような視線に胸が痛くなる。
彼は今、必死にまたエリンナを忘れる術を探しているのだ。
なんだか申し訳ない気持ちになるが、ここで嘘をつくような不誠実な事はしたくなくて、首を横に振った。
「忘れられなかったです。何とか考えをめぐらせて、相手の困りごとに付け込んで契約結婚だと言いくるめて、結婚にこぎつけました」
そう告げると、こちらを見上げている殿下の瞳が一層大きく見開かれた。
「ティアナだったのか……しかし、契約結婚?」
驚きを隠せない様子の殿下に頷いて。
「彼女は自分を活かせる場に身を置きたい、俺は家業を担ってくれる女性を妻に欲しいと利害の一致で彼女を丸め込んで、結婚まで運びました。それほどまでしてでも、彼女が欲しかったので」
黙っていてすみません。
そう告げると、殿下は少しだけ視線をさ迷わせて。
「なるほどな~」
大きく息を吐いて両手で額を覆った。
「すみません。殿下にお力添えをいただいたりしたのに、だまっていました」
「いや、まぁ……不思議ではあったんだ。ティアナ嬢が……割と理性的な彼女が、お前と燃え上がってすぐ結婚を決めたというのが意外だったから」
当時を思い出すように、言葉をつないで、「なるほどな」と呟く殿下にほっと胸を撫で下ろす。
色々と骨を折ってもらった彼を騙し続ける事が正直ずっと心苦しい思いがあった。こんな話の流れになってしまったのは不本意ではあるが……
「そうか~」
ひとしきり納得した殿下が、もう一度俺を見上げて、大きく息を吐いた。
「だが、どうなんだ? そうした手を使って手に入れた彼女と過ごしてみて、お前は幸せか?」
その言葉は、心底俺を心配しているという色が込められていて……
「幸せです。ですが、時々怖くて仕方ありません。彼女がいつか本当に好きな男を見つけて契約を解消したくなるのではないかと」
素直に胸の内にずっとくすぶっている想いを告げると
「だろうな。お前も、随分難しい状況にいるのだな」
と眉を下げた。
丁度その時、執務室の扉が叩かれて、外で護衛についていたディノが入室してきて、待っていた書類の到着を知らせた。
「ようやく愛妻と再会できたのに、朝早くから出勤させられた挙句、このように待たされてはたまらんだろう?」
適当に手元にある紙束を弄びながら殿下がうかがうようにこちらを見て来る。このところの殿下はエリンナ夫妻の姿を見てからというもの、何か引っかかるものを感じるのか、ティアナの事を聞いてくる事が多い。
「リドック・ロドレルの事は聞けたのか?」
はっきりとそう問われて、俺は肩を竦めて苦笑する。
「まさか……昨日の帰宅時間と今朝の出勤時間をお考え下さい」
「はは、それもそうか、すまない」
すぐに考えに至った殿下も、苦笑ぎみに肩を竦める。
「まったく、新婚夫婦の会話もままならないこの状況は健全ではないな」
そう言って手にした書類を執務机に放り投げた殿下は大きく息を吐く。
視察に出ていた間に溜まった公務を朝から急ピッチで片付けていたにも関わらず、ここにきて急に手持無沙汰になったのは、この先一番手のかかると目していた決裁文書がどこかで止まっているらしくまだ上がって来ていないのだ。
故にできてしまったこの空白の時間……今日はなるべく早く帰宅したい自分にとっては、本当に煩わしい時間である。恐らく殿下もそれを察してくれた上で話を向けてくれているのだろう。
「できれば今夜聞きたいと思っていますが、この感じでは難しいかもしれませんね」
諦めを込めてそう呟けば、殿下がイライラしたように机上を指で叩く。
「まったく、たっぷり時間はあったはずなのに、まだ上がって来ないというのはどういうことだ……」
「仕方ありません。もともと出来上がっていたのに、昨日になって議会で急な方針転換がなされたのですから」
なだめるようにそう告げると殿下は大きく息を吐く。
エリンナの話がどの程度深刻だったのか、それが分れば、彼女が俺に声をかけてきたことが、殿下に対する当てつけが大きいのか、それとも本当に友を想っての事だったのかが分かるからだろう。
自分とはまた違う方向で殿下も気になっているらしい。
「お前は、俺を女々しいと思うか?」
不意に、意を決したようにそう言った殿下はどこか気まずげに目を逸らして、向い側の壁に視線を向けた。
「どうされました? 急に」
普段快活で、さっぱりとした性格をしている分、ことエリンナの事が関わると彼がこうなってしまうのは、長い付き合いの中で分かってはいるから、驚きはしない。一度吹っ切った気持ちが再燃していることに彼が戸惑っていることもなんとなしに察知していたため、ここは吐き出させたほうがいいのだろうと判断して、聞く姿勢を見せると、彼もその空気を読み取ったのか、机上に頬杖をついた。
「今回の事で、意外にも彼女を忘れられていないことに、自分でも愕然としたんだ。もういいだろう、と自分で自分に言ってやりたいくらいだ」
拗ねたようなその言葉に、「そうですね」と頷く。
「確かに、私ももう随分吹っ切れられたと思っていたので意外でした。でも、考えてみれば無理もないと、理解できます」
そう告げて殿下を見れば、彼は意外そうな顔でこちらを見上げているので肩を竦めて見せる。
「俺も、同じですから。諦めて……忘れたと思っていて、それなのに彼女を目の前にしたら、やはり未練を捨てきることはできませんでした」
あの夜、誰もいない薄暗い庭で、婚約者に対して毒づいている彼女の本心を知るまで、俺の中では彼女は完全に諦めた手の届かない存在だったのだ。それなのにたったあれだけのことで、驚くほどに気持ちが再燃した。
俺にとって幸いだったのは、ティアナ自身がグランドリーから離れたい気持ちが強かった事で、状況がこちらに都合がよい方向に好転した事だ。彼女が怪我を負う事こそ本望ではなかったが、それでも今幸せなのは、単に運が良かったからだと言える。
対する殿下は、彼を取り巻く状況も、相手であったエリンナの決断も全て彼の想いに反することだ。
気持ちの向ける先が見つからず、くすぶっていたのも無理はないように思う。
「意外だな、お前にそんな人がいたのか?」
驚いた様子で問うてきた殿下に、頷いてみせると、殿下は一度言葉をのみ込むようにして、意を決したように口を開く。
「それは……結局どうやって忘れたんだ?」
どうやら彼は、俺の忘れられなかった人=ティアナとは結び付いていなかったらしい。
その答えを探すような、すがるような視線に胸が痛くなる。
彼は今、必死にまたエリンナを忘れる術を探しているのだ。
なんだか申し訳ない気持ちになるが、ここで嘘をつくような不誠実な事はしたくなくて、首を横に振った。
「忘れられなかったです。何とか考えをめぐらせて、相手の困りごとに付け込んで契約結婚だと言いくるめて、結婚にこぎつけました」
そう告げると、こちらを見上げている殿下の瞳が一層大きく見開かれた。
「ティアナだったのか……しかし、契約結婚?」
驚きを隠せない様子の殿下に頷いて。
「彼女は自分を活かせる場に身を置きたい、俺は家業を担ってくれる女性を妻に欲しいと利害の一致で彼女を丸め込んで、結婚まで運びました。それほどまでしてでも、彼女が欲しかったので」
黙っていてすみません。
そう告げると、殿下は少しだけ視線をさ迷わせて。
「なるほどな~」
大きく息を吐いて両手で額を覆った。
「すみません。殿下にお力添えをいただいたりしたのに、だまっていました」
「いや、まぁ……不思議ではあったんだ。ティアナ嬢が……割と理性的な彼女が、お前と燃え上がってすぐ結婚を決めたというのが意外だったから」
当時を思い出すように、言葉をつないで、「なるほどな」と呟く殿下にほっと胸を撫で下ろす。
色々と骨を折ってもらった彼を騙し続ける事が正直ずっと心苦しい思いがあった。こんな話の流れになってしまったのは不本意ではあるが……
「そうか~」
ひとしきり納得した殿下が、もう一度俺を見上げて、大きく息を吐いた。
「だが、どうなんだ? そうした手を使って手に入れた彼女と過ごしてみて、お前は幸せか?」
その言葉は、心底俺を心配しているという色が込められていて……
「幸せです。ですが、時々怖くて仕方ありません。彼女がいつか本当に好きな男を見つけて契約を解消したくなるのではないかと」
素直に胸の内にずっとくすぶっている想いを告げると
「だろうな。お前も、随分難しい状況にいるのだな」
と眉を下げた。
丁度その時、執務室の扉が叩かれて、外で護衛についていたディノが入室してきて、待っていた書類の到着を知らせた。