その溺愛、契約要項にありました?〜DV婚約者から逃れたら、とろ甘な新婚生活が待っていました〜

99 覚悟

♢♢
わずかな馬の嘶く声と。石畳を踏みしめる音になぜか急激に意識を引き戻されて目を覚ました。
隣に……というよりしっかり抱き合っていたはずの彼の姿はなく、灯を落とされて薄暗くなった部屋を見渡すけれど、彼の気配を感じる事はなかった。

もしかして仕事をしているのかしら?

そう思って、灯を付けて彼の部屋のコネクティング扉を開いてみるけれど、そこにも彼の姿はなかった。

不思議に思っていると、またしても外から馬の嘶きと馬車の走る音が聞こえて、誘われるように窓辺に近づけば、ちょうど門を一台の馬車が出ていくところだった。

暗闇の中少ない外灯に浮かんだその馬車は、見慣れたもので、それだけで彼がここに居ない理由を容易に理解できた。

リドックが来ていて、そして何らかの話し合いの場を設けたのだろう。
いったいどういった事が話し合われたのだろうか、彼がリドックを家に招いたという事は双方で話がまとまりつつあるという事だろうか。

自分が知らないところで話が動いているもどかしさを感じながら、しかしそれも仕方のない事だと自身に言い聞かせていると、突然バタリと扉が開いて、息を切らせた彼が部屋に飛び込んで来た。

「やはり起きていたか」

大股数歩でこちらまで近づいてきた彼は、私の頬に手を伸ばしてゆっくりと撫でる。

「リドックが、来ていたの?」

見上げて問いかけると、彼は「そうだ」と頷いて、背中に手を回すとゆっくりと私の身体をベッドに誘って、座らせる。

「今日の夕に突然来訪すると連絡があってね、急遽対応することになったんだ。それで……これを預かった。まだ彼は少し興奮気味だから会う事は控えたほうがいいと思うが、彼も君に話したい事はあるだろうから」

私の腰を引き寄せながらそう言って彼は胸元から白い封筒を差し出してくる。

宛名は私の名前で、送り主の名もしっかり書かれている。

「俺は、もう一度着替えてくるから、今度こそ一緒に休もう」

私に手紙を渡した彼が立ち上がって、チュッと私の頭に口付けて離れていく。
その背中を見送って、しばらく封筒を眺めていたが、思い切って封を開ける事にした。

少し癖がある、しかし几帳面なリドックの文字を目で追っていく。

まず最初に、ロブダート卿の言う事が私の総意であるとは俄かに信じがたく、一度2人できちんと話をする場を設ける事を君の方からも夫を説得して欲しい。
君にとって我が家はグランドリーと色々あった手前、戻り辛いかもしれないが、心配ない。
父は今会期が終わったら政治の表舞台を退いて郊外の別邸に移る予定であるし、継母は随分と精神状態が悪いので、北部にある故郷の治療院に入れるように手配をしているところだ。君が我が家に来ても気まずい思いなど一切ないように準備は進んでいるから気にしなくていい。
君がやりたい仕事の下準備も着々と進んでいるから、安心してくるといい。昔からある事業を維持するのもいいかもしれないが、新しい事を開拓していくことは、もっとやりがいがあると思わないか?
もしこの手紙が君のもとに問題なく渡ったのなら、返事をもらえると嬉しい。

要約するとそんな内容だ。
手紙を膝の上に置いてソファに身体を預ける。
自然と大きなため息が漏れて、目頭を押さえる。

一体どうしたらいいのだろうか……
リドックは夫が伝えている事の全てを信じていないらしい。

失望感と焦燥感が一気に胸の内を駆け巡り、唇をきつく結んでいると、丁度夫が自室からこちらに戻ってきた。


近づいてくる彼と視線を合わせれば、それだけで何かを察した彼は、困ったように微笑んで肩をすくめた。


手紙を手渡すと、彼は「いいのか?」と問うように視線を向けてくるので、頷いて見せる。

私の隣に座った彼が手紙に目を落とすのを見守りながら、次第に表情を曇らせていくのを見守った。

「俺の言葉を頑なに信じるつもりはないようだな」

手紙を折りたたんで返されて、それを封筒に戻していると、「分かっていたけれど……」と彼は息をついた。

「やっぱり私が直接話した方がよさそうね」

これ以上こんな不毛なやり取りで彼を煩わせたくないし、何よりことの発端は私とリドックの間で生じたすれ違いだ。当人者同士で直接やり取りする場を設けるべきだろう。

「確かにな……それができたならいいのだが、リドックがもう少し冷静に話ができないと……」

彼のあたたかな手が私の手を握りゆっくりと撫でる。見上げた彼は不安げな表情で私を見下ろしている。
彼だって、私とリドックが直接話をすることが一番いい事は理解している。しかし激高したリドックが私へ与える影響を考えてくれているのだ。

彼の言うように、リドックがグランドリーのように平静さを失って激高する場面に直面した時、私自身がどのような反応になるのか、正直分からない。

私の精神状態を害す可能性があると言われているのに、リドックに対面するのは実際の所怖くはある。
でもこの状態が続いてしまうのも良くはないわけで……

きゅうと唇を引き結ぶと、こちらを見下ろしていた彼が心配そうに瞳を曇らせる。

彼は、いつもこうして私の顔色を窺って、細やかに気遣ってくれる。
そして、そんな彼に守られているとわかるからこそ、あんな出来事があった後でも、私も穏やかに過ごすことができたのだ。

それならば……

しっかり顔を上げて、私は彼を見上げると微笑む。

「リドックと、対面の場を設けてください。私は大丈夫だから」

「いや、しかし‼︎」

瞬時にそれはダメだと止めようとする彼を、私は首を振って制する。

「きっと、そうでないとリドックは納得しないわ……でも、やっぱり少し怖いのは正直なところ。だから、あなたも一緒に付いていてもらえるかしら?」

「っ……」

一瞬息を飲んだ彼が、視線をさ迷わせて、前髪をくしゃりと掻き上げる。
少し悔し気なそれは、きっと私にそんな無理をさせたくなかったのに、結局それが叶わなかったからだ。
そんなにまでして私を守ろうとしてくれている。本当に優しい人。

「グランドリーと舞踏会で会った時も、貴方がいてくれたから乗り切れたの……今回もあなたが側にいてくれたら、大丈夫」
念を押すように彼の手を握って微笑んで見せる。

彼の漆黒の瞳が、迷うように揺れて…

「っ……分かった。だが、場の設定は俺に任せて欲しい」

絞り出すようなその言葉に、私は「えぇ」と頷いて彼の手を握る。

先ほどまで温かかった指先が少しだけ冷たかった。
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