天使がくれた恋するスティック

第3話

 体育の授業が終わって、昼休みになった。
お弁当を食べ終えた後のつかの間の平和な時間に、私と絢奈はいつものように定位置である廊下の窓から身を乗り出し、スマホにつなげたイヤホンを分け合って世界を共有していた。
絢奈との時間は楽しい。
何も考えずに、ただ話しているだけでいいから。
新しく見つけた配信者のこととか、新作MVのこととか、いつだって「楽しい」を分け合える。

 そうやって楽しんでいたところへ、突然坂下くんが割り込んで来た。
私の隣に立つと、驚いて見上げた私を、さも当たり前のように見下ろす。
絢奈もびっくりしてたけど、彼女はとっさに、何でもないことのように普通に振る舞った。

「いつもさ、ここで二人で何してんの」
「何って?」

 私たちにとっては丁度いい高さの窓枠も、彼にとっては少し低いらしい。
上体を曲げ、腰をずいぶん後ろに引いている。

「いつも楽しそうにしてるなーと思いながら見てた」
「……。坂下くんが見てたの?」
「そう」

 隣に並んだ彼の腕が、もぞりと動く。
こつりと肘が当たったけど、見た目には制服のシャツが触れ合っているかいないかくらいにしか見えない。
当たったままの肘を彼が動かそうとしないから、私も動けない。

「俺にもイヤホン貸して?」

 突然の申し出に、思わず絢奈を振り返ったら、「いいよ」とうなずいた。
私の耳にあったイヤホンが、彼の手に転げ落ちる。
絢奈のイヤホン、こんなに小さかったっけ? 
それは私にあった時と同じ右の耳にはめられた。

「あ。これヨルナラの新曲? 俺も聞いてるよ。好き」
「坂下くんも好きなの?」
「うん」

 いつもは高いところにある横顔が、今は目線の下にある。
目を閉じて微かに漏れる彼の鼻歌が、さっきまで繰り返し聞いていたラブソングと重なる。
甘い声で届かぬ想いを歌っていたのは、誰だったのか分からなくなる。

「あ。好きって、この曲のことだからね」
「分かってるよ!」

 急にそんなことを言うから、聞かされたこっちの方が茹でタコみたいになってる。
彼にまでそれは伝染して、ついにイヤホンを外した。

「もう。そういうの恥ずかしいからやめて」

 彼の手が伸び、私の短い髪をかき上げる。
むき出しになった耳にそっとはめ込まれたイヤホンは、耳の穴から少しずれていた。

「また後でね」

 なにがまた後? 
そんな約束、いつしたっけ? 
混乱する私を残し、彼は悠々と男子トイレに消えた。
この世の何よりも宇宙一真っ赤になった顔を、思いっきり絢奈に見られている。

「……。な、なに?」
「別に」

 絢奈は何かを察したように長いため息をついた。

「ま、坂下くんとは何かあったんだろうなーとは思ってたけどさ」
「何にもないから! マジで本当に完璧に何にもないから!」
「うんうん、分かったよ。美羽音がそう言うなら、そういうことにしておく」
「違うって!」
「はいはい違う違います違うよねー」
「だからホントに違うから!」
「違うよねー。あー違う違う」

 絢奈なのに分かってくれない! 
彼女が私をからかってるのか怒っているのか分からないまま、始業開始のベルを迎える。
彼女にイヤホンを返した時、これが自分のだったらよかったのにと、ちょっと思った。

 放課後になって、帰宅の途に就く。
教室を出たところで、ふとスティックが気になった。
廊下のいつもの場所から、下をのぞき込む。
あれから数日が過ぎているのに、私にはしっかりと見えている宙に浮いたままの不自然な矢は、やっぱり他の人には見えていないらしい。
窓枠一つ向こうにいる男子だって、おしゃべりに夢中のままだ。

 天使がくれた恋するスティック。
あれが偶然にも私に刺さらなかったら、どうなっていたんだろう。
もし刺さってなかったら、こんなに気持ちは動かなかった? 
あの事故が起こる前まで、私は坂下くんのことをどう思っていたんだろう。
そんなことも今は思い出せない。

「やっぱりアレ。他の人には見えてないんだね」

 不意にその彼が隣に並んできた。
白いシャツに覆われた大きな体をかがみ込ませたまま、自分の額を撫でる。

「やっぱ俺、病院行った方がいいのかな」
「そんな違和感ある?」
「持田さんは?」

 また名前を呼ばれた。
この声で自分の名を告げられると、こんなにもきゅっと胸を締め付けられるとは思わなかった。
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