天使がくれた恋するスティック
第11章

第1話

 館山さんのサラサラとした長い黒髪からは、とてもいい匂いがする。
ちょっといいシャンプーの香りだ。
気温の上がり始めた初夏の、エアコンの効かないほこりっぽい階段の空気すら、その香りで特別なものに変えてしまう。

「私、快斗のぬいぐるみのこと、なんにも知らないよ」
「ぬいぐるみ? なんのこと?」

 自分でそう言っておいて、ハッと口をつぐんだ。
快斗の鞄にぶら下がったラッコ先生のことだ。
完全な誤解だけど、彼女がそう思うのは仕方がない。

「ふふ。その心配をしてたんじゃないの?」

 してない。
してないけど、してないとは言えない。

「あのぬいぐるみ、どうして快斗に返しちゃったの?」
「私が受け取るべきものじゃなかったから」

 昼休みの階段を一階まで降りきった。
館山さんは、私をどこへ連れて行こうとしているんだろう。
また廊下の角を曲がった。

「『受け取るべきもの』か。私もあのぬいぐるみ、欲しかったなー」

 目的も分からぬまま校内を歩き、校舎に囲まれた中庭に出た。
真ん中の植え込みはレンガで囲いがしてあって、座れるようになっている。
昼休みのまっただ中にあって、そこに二人分のスペースは空いていなかった。
「他のとこ探そっか」と言われ、再び歩き出す。
初夏の空はどこまでも高く澄みわたっていた。

「……。あのさ、快斗のラッコ先生。二つあったのが一つになったでしょ」
「え。そうなの?」
「あれ? そのことを聞きに来たんじゃなかったの?」

 うっ。ゴメン。
その後あのラッコ先生がどうなったかなんて、全く気にしてなかった。

「そのもう一個、中島さんがもらったんでしょ?」
「絢奈? 絢奈が?」

 そういえば、絢奈に言った。
欲しかったんなら、快斗にもらったらって。

「え、えーっと……」
「中島さん。最近快斗と仲いいもんね。それは持田さん繋がりだからだと思ってたけど、それだけじゃなかったんだなって」
「ゴメン。それは聞いてない」
「知らなかった? 中島さんが、鞄にラッコ先生つけ始めたの」

 それは何か見たような気がするけど、あえて聞かなかったというか、聞かなくてもいいっていうか、聞いちゃいけないってゆうか……。
普通にスルーしてた。

「快斗にもう一個のラッコ先生どうしたのって聞いたら、妹に取られたって言ってた」
「そ、そうなんだ」
「みんな優しいよね。気を遣ってくれて、誤魔化してくれてんだよね」

 彼女の横顔が、キラキラした真昼の初夏の太陽に沈んでいる。
誰の言葉が真実で、どこに本当があるのかが分からない。
だけど、館山さんが嘘をついてるとも思えない。

「あ、絢奈はね! 自分で休みの日に、ゲーセン行って取ってきたって言ってたよ! 2時間くらいかかって、家に帰るの遅くなって、お母さんに怒られたって」
「そうなの?」
「うん。だって、絢奈が私にウソつく必要なくない?」
「……。そうかな」
「そうだよ」

 昼休みの校内はどこも人でいっぱいで、私たちはよく知っている場所なのに、居場所を探して彷徨っている。
彼女の長い黒髪が、ふわりと揺れた。

「館山さんは、快斗のこと信じてあげないの?」
「……。し、信じたいとは思ってるよ。だけど、快斗も私のこと好きかもって思ってたのは、私だけの勘違いだったし。快斗には避けられてるから、何を言われても、されても、やってること見てても、きっと私のこととか、全然関係ないところにいるんだろうなーって。だからむしろ、関わりたいけど関わらないようにしようって。私はこんなにも考えてるのに、向こうは全然何にも考えてないっていうか、視界にも入ってないだろうし、むしろ邪魔とか思われてるの確かだし、私なんかが絡んで行っても……」

 ズズッと、鼻水をすする音が聞こえる。
館山さんは、顔を真っ赤にして歩いていた。
さっきから少しだけ、歩く速度が速くなってる。
そっか。
館山さんみたいな人でも、こんな風に泣いたり悩んだり苦しんだりするんだ。
何にも悩みなんかなくて、何でも思い通りになって、彼女みたいな特別な人は、全てが上手く行くんだと思っていた。
先生からも周りからもみんなから認められて、彼女が微笑めば男子はみんな言うこと聞くんだと思ってた。
だけどそんなのも、他人が勝手に思い描く幻想で、彼女は全然そんな人なんかじゃない。
私と同じだ。
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