天使がくれた恋するスティック
第2話
男女混合で今月から始まったテニスの授業は、3組との2クラス合同で行われていた。
3、4時間目という昼休み前に組まれた体育という時間割は、神がかっていると言っても過言ではない。
一週間のプログラムの中で、この時間が一番リラックスできる時間だった。
先生との打ち合いの順番が回ってくる合間の待ち時間で、生徒たちはそれぞれの列に並びながら、思い思いに過ごしていた。
学校敷地内にある2面のクレーコートでは、2クラス分の人数を賄うには、容量が足りなさすぎる。
時間を持て余した私たちにとって、体育の空き時間というのは、いつもとは違う特殊な社交場になっていた。
昼休みでも放課後でもなく、限られた時間を同じ空間で密に過ごしながら、与えられたミッションをクリアする。
出席番号順で分けられた班は、日頃教室内で形成されている固いグループの結束を、あっさりと崩壊させてしまう。
それは通常の秩序が崩れている状態でもあった。
だからこそこういう時には、普段なら決して起こりえない状況が、起こったりもする。
「あのさ、ずっと聞こう聞こうと思って忘れてたんだけど……」
「え! なにが?」
突然、坂下くんの方から私に声をかけてきた。
あまりの不意打ちに、思わず声が裏返る。
いくら身分階級的拘束解除中の特殊ステージとはいえ、これはあってはならないことだ。
出る杭は頭ひとつ飛びださなければ、雉も鳴かずば撃たれないのに、上位カーストの男子からモブ女に声をかけるなど、自分から進んで注目の的になりにいくようなものだ。
そんな目立つようなこと、なんでわざわざしにくるかな?
話しかけないでよ、こんな時に!
「アレ刺さった後、どんな感じしてる?」
そう言うと彼は、自分の頭をもぞもぞと撫でた。
「え? え? なんのこと?」
「いや。アレと言えば、放課後のアレに決まってるでしょ。持田さんの額に刺さったアレ」
「あ……。あぁ、アレね。私は平気。何ともない。さ、坂下くんこそ、大丈夫だったの?」
自分の声が、何気にひっくり返っているのが分かる。
緊張しすぎて、上手く口が回らない。
彼が近くにいるのは分かっていた。
なんでこんな近くにいるんだろうって、チラチラ見ちゃってたのがいけなかったのかもしれない。
私はただ、近くに立っているだけでよかった。
話しかけなくても話しかけられなくても、ただ側にいるだけで十分楽しかったし、嬉しかった。
よそ行き声で、精一杯の作り笑いを愛想よく浮かべる。
絶対に自意識過剰なのは分かってるんだけど、今の私は、この場所にいる全員から注目を浴びているような気がしている。
「なんか気のせいか、若干違和感があるんだよね。持田さんは?」
「え? 違和感?」
まだ会話を続けるつもりなんだろうか。
彼はゆったりとした仕草で、また自分の額を撫でた。
打ち返されたテニスボールが、パコーンと気の抜けた音を立てて跳ね返る。
彼は周囲の反応に対して、無防備にも程がある。
どうすればこの会話を、早く終わらせられる?
「違和感があるなら、病院行った方がいいかも」
「……。なんて説明すんの?」
「いや、なんか気になりますって」
「ふっ。なんだそれ。説明になってないし」
笑った。
坂下くんが笑った。
一瞬の出来事だったけど、彼の静止画みたいな表情が、確実に緩んでいる。
その笑みが眩しく思えるのは、きっと今日のぽかぽかした春の陽気を、テニスコートがはね返したせい。
「刺されたのって、デコだっけ」
「え? あ、うん」
慌てて額を覆い隠す。
その仕草を見られていることすら恥ずかしくなって、短い前髪をぐいぐい引っ張って、また誤魔化す。
坂下くんの浮かべる微笑みからは、絶対に癒やしの波動効果が出ている。
間違いない。
「持田さんは、本気でなんともなかったんだ」
「うん! 私は平気!」
本当は全然平気じゃないけど。
ぎゅっと胸が苦しくなるのは、頭から他のことが全部吹き飛んじゃうのは、絶対普通じゃないって分かってる。
そんな私を、彼が心配してくれている。
何か言わなきゃ。
「だけど違和感あるなら、本当に病院行った方がいいかもよ。カラスに襲われましたとか言ってさ」
「あぁ、なるほどね」
こうやって何気ない会話を、普通に出来ることが嬉しい。
周りに他の人が沢山いるのに、それでも自然に話せることが嬉しい。
めちゃくちゃ意識してるのに、意識なんてしてないみたいに居られることが嬉しい。
だけどそんな平和は、一瞬にして崩れた。
「わー。どうしたの? 坂下くんと持田さんがしゃべってるなんて、珍しいよね」
出た。
彼といつも一緒にいる、一軍女子の館山さんだ。
透けるような白い肌に真っ直ぐで艶やかな黒髪は、間違ったことなんてただの一度すら考えたこともないようなストレートさだ。
正統派清楚系美人の彼女からは、謎にいい匂いまでする。
絶対に私にはだせない空気感だ。
「昨日さ、カラスのボスに襲われたんだよ。俺と持田さん」
「え。大丈夫だったの?」
館山さんの無垢で純粋すぎる顔が、本当に心配そうに私をのぞき込む。
そんなに気にしてもらう程のことなんてないのに、逆にこっちが申し訳ない。
「う。うん! 大丈夫。平気へいき!」
「あはは。まぁ、そうだよな! 何もない、何もないよ」
彼はふわりとした口元にキラリとした目つきで、いかにも「本当は別に何か全然ありましたけどね!」みたいな笑みを浮かべた。
それじゃもっと聞いてくださいって言ってるようなもんだ。
こんな雰囲気醸し出していたら、ますます周囲が気にするじゃない。
くだらない秘密を隠し持ってる私を、ピュアな館山さんは本気で心配してくれてるのに。
「えー! やだぁ。あのカラスってさぁ、ホントに怖いよね」
「まぁ、何でも目に付いたものは追いかけていくからな」
「坂下くんでも襲われるの?」
「襲われるっていうか、襲われてるのを見ちゃったっていうか……」
「えー! じゃあ、ボスに襲われてた持田さんを、坂下くんが助けたってこと?」
「ある意味」
「そうなんだー! 持田さん、大変だったんだね」
どこまでも澄んだ黒い目が、汚れのない純真な心でのぞいてくる。
その後ろで彼は、ニヤニヤと得意気に笑ってくる。
これはもう諦めて、愛想笑いするしかない。
「あはは。まぁ、そうなのかも……」
顔も可愛ければ性格もいい館山さんは、普段から仲のいい坂下くんと、どうやって追い払ったのーとか、いつもは校内のこの辺をうろついてるよねーだとかいう会話を、自然と始めてしまった。
流れはそのまま「二人の会話」になってゆく。
彼と館山さんは、いつも一緒にいる仲良しグループなのだ。
突然のありえない偶然で事故的に彼と秘密を共有することになっただけの私に、この親密さはない。
やがて話題は移り変わり、二人が話す内容に半分も追いつけなくなった。
当たり前だ。
私なんかよりずっとずっと彼女の方が、積み重ねてきた日常の厚みが違う。
このタイミングで、主人公クラスのヒロインを前に、モブ女が退場しなくてどうする。
そういう流れでしょ。
「あ。じゃあ、またね」
ニコッと義務的に笑顔を浮かべ、小さく手を振る。
都合よく次の次の次のラリーの順番が回ってきたことだし、正しい選択をしたはずだ。
館山さんにも、私が急に坂下くんとしゃべり出したことに、疑問を持たれるようなことはなかったはず……。
平静を装い、何でもない顔をして隣になった女の子と「先生の球出し、微妙じゃない?」なんて言いながら、意識はしっかりと彼の動きを追っている。
友達としゃべりながらテニスボールを地面に突いてるところとか、肩をぐるぐる回してるところとか。
ふとした瞬間に、彼と目が合った。
照れたようにうつむかれたりなんかすると、こっちまでキュンとくる。
彼が人差し指で、ぐいぐい前を指さすから、「なに?」って首をかしげたら、声を出さずに口の動きだけで「前、前!」だって。
自分の前の列が空いていたことに気づいて慌てて前に詰めたら、それ見てまた笑ってる。
恥ずかしい。
でもなんかうれしい。
また目が合った。
あんなに遠くて別次元だった人が、私を見てくれている。
もうそれだけで十分な気がした。
3、4時間目という昼休み前に組まれた体育という時間割は、神がかっていると言っても過言ではない。
一週間のプログラムの中で、この時間が一番リラックスできる時間だった。
先生との打ち合いの順番が回ってくる合間の待ち時間で、生徒たちはそれぞれの列に並びながら、思い思いに過ごしていた。
学校敷地内にある2面のクレーコートでは、2クラス分の人数を賄うには、容量が足りなさすぎる。
時間を持て余した私たちにとって、体育の空き時間というのは、いつもとは違う特殊な社交場になっていた。
昼休みでも放課後でもなく、限られた時間を同じ空間で密に過ごしながら、与えられたミッションをクリアする。
出席番号順で分けられた班は、日頃教室内で形成されている固いグループの結束を、あっさりと崩壊させてしまう。
それは通常の秩序が崩れている状態でもあった。
だからこそこういう時には、普段なら決して起こりえない状況が、起こったりもする。
「あのさ、ずっと聞こう聞こうと思って忘れてたんだけど……」
「え! なにが?」
突然、坂下くんの方から私に声をかけてきた。
あまりの不意打ちに、思わず声が裏返る。
いくら身分階級的拘束解除中の特殊ステージとはいえ、これはあってはならないことだ。
出る杭は頭ひとつ飛びださなければ、雉も鳴かずば撃たれないのに、上位カーストの男子からモブ女に声をかけるなど、自分から進んで注目の的になりにいくようなものだ。
そんな目立つようなこと、なんでわざわざしにくるかな?
話しかけないでよ、こんな時に!
「アレ刺さった後、どんな感じしてる?」
そう言うと彼は、自分の頭をもぞもぞと撫でた。
「え? え? なんのこと?」
「いや。アレと言えば、放課後のアレに決まってるでしょ。持田さんの額に刺さったアレ」
「あ……。あぁ、アレね。私は平気。何ともない。さ、坂下くんこそ、大丈夫だったの?」
自分の声が、何気にひっくり返っているのが分かる。
緊張しすぎて、上手く口が回らない。
彼が近くにいるのは分かっていた。
なんでこんな近くにいるんだろうって、チラチラ見ちゃってたのがいけなかったのかもしれない。
私はただ、近くに立っているだけでよかった。
話しかけなくても話しかけられなくても、ただ側にいるだけで十分楽しかったし、嬉しかった。
よそ行き声で、精一杯の作り笑いを愛想よく浮かべる。
絶対に自意識過剰なのは分かってるんだけど、今の私は、この場所にいる全員から注目を浴びているような気がしている。
「なんか気のせいか、若干違和感があるんだよね。持田さんは?」
「え? 違和感?」
まだ会話を続けるつもりなんだろうか。
彼はゆったりとした仕草で、また自分の額を撫でた。
打ち返されたテニスボールが、パコーンと気の抜けた音を立てて跳ね返る。
彼は周囲の反応に対して、無防備にも程がある。
どうすればこの会話を、早く終わらせられる?
「違和感があるなら、病院行った方がいいかも」
「……。なんて説明すんの?」
「いや、なんか気になりますって」
「ふっ。なんだそれ。説明になってないし」
笑った。
坂下くんが笑った。
一瞬の出来事だったけど、彼の静止画みたいな表情が、確実に緩んでいる。
その笑みが眩しく思えるのは、きっと今日のぽかぽかした春の陽気を、テニスコートがはね返したせい。
「刺されたのって、デコだっけ」
「え? あ、うん」
慌てて額を覆い隠す。
その仕草を見られていることすら恥ずかしくなって、短い前髪をぐいぐい引っ張って、また誤魔化す。
坂下くんの浮かべる微笑みからは、絶対に癒やしの波動効果が出ている。
間違いない。
「持田さんは、本気でなんともなかったんだ」
「うん! 私は平気!」
本当は全然平気じゃないけど。
ぎゅっと胸が苦しくなるのは、頭から他のことが全部吹き飛んじゃうのは、絶対普通じゃないって分かってる。
そんな私を、彼が心配してくれている。
何か言わなきゃ。
「だけど違和感あるなら、本当に病院行った方がいいかもよ。カラスに襲われましたとか言ってさ」
「あぁ、なるほどね」
こうやって何気ない会話を、普通に出来ることが嬉しい。
周りに他の人が沢山いるのに、それでも自然に話せることが嬉しい。
めちゃくちゃ意識してるのに、意識なんてしてないみたいに居られることが嬉しい。
だけどそんな平和は、一瞬にして崩れた。
「わー。どうしたの? 坂下くんと持田さんがしゃべってるなんて、珍しいよね」
出た。
彼といつも一緒にいる、一軍女子の館山さんだ。
透けるような白い肌に真っ直ぐで艶やかな黒髪は、間違ったことなんてただの一度すら考えたこともないようなストレートさだ。
正統派清楚系美人の彼女からは、謎にいい匂いまでする。
絶対に私にはだせない空気感だ。
「昨日さ、カラスのボスに襲われたんだよ。俺と持田さん」
「え。大丈夫だったの?」
館山さんの無垢で純粋すぎる顔が、本当に心配そうに私をのぞき込む。
そんなに気にしてもらう程のことなんてないのに、逆にこっちが申し訳ない。
「う。うん! 大丈夫。平気へいき!」
「あはは。まぁ、そうだよな! 何もない、何もないよ」
彼はふわりとした口元にキラリとした目つきで、いかにも「本当は別に何か全然ありましたけどね!」みたいな笑みを浮かべた。
それじゃもっと聞いてくださいって言ってるようなもんだ。
こんな雰囲気醸し出していたら、ますます周囲が気にするじゃない。
くだらない秘密を隠し持ってる私を、ピュアな館山さんは本気で心配してくれてるのに。
「えー! やだぁ。あのカラスってさぁ、ホントに怖いよね」
「まぁ、何でも目に付いたものは追いかけていくからな」
「坂下くんでも襲われるの?」
「襲われるっていうか、襲われてるのを見ちゃったっていうか……」
「えー! じゃあ、ボスに襲われてた持田さんを、坂下くんが助けたってこと?」
「ある意味」
「そうなんだー! 持田さん、大変だったんだね」
どこまでも澄んだ黒い目が、汚れのない純真な心でのぞいてくる。
その後ろで彼は、ニヤニヤと得意気に笑ってくる。
これはもう諦めて、愛想笑いするしかない。
「あはは。まぁ、そうなのかも……」
顔も可愛ければ性格もいい館山さんは、普段から仲のいい坂下くんと、どうやって追い払ったのーとか、いつもは校内のこの辺をうろついてるよねーだとかいう会話を、自然と始めてしまった。
流れはそのまま「二人の会話」になってゆく。
彼と館山さんは、いつも一緒にいる仲良しグループなのだ。
突然のありえない偶然で事故的に彼と秘密を共有することになっただけの私に、この親密さはない。
やがて話題は移り変わり、二人が話す内容に半分も追いつけなくなった。
当たり前だ。
私なんかよりずっとずっと彼女の方が、積み重ねてきた日常の厚みが違う。
このタイミングで、主人公クラスのヒロインを前に、モブ女が退場しなくてどうする。
そういう流れでしょ。
「あ。じゃあ、またね」
ニコッと義務的に笑顔を浮かべ、小さく手を振る。
都合よく次の次の次のラリーの順番が回ってきたことだし、正しい選択をしたはずだ。
館山さんにも、私が急に坂下くんとしゃべり出したことに、疑問を持たれるようなことはなかったはず……。
平静を装い、何でもない顔をして隣になった女の子と「先生の球出し、微妙じゃない?」なんて言いながら、意識はしっかりと彼の動きを追っている。
友達としゃべりながらテニスボールを地面に突いてるところとか、肩をぐるぐる回してるところとか。
ふとした瞬間に、彼と目が合った。
照れたようにうつむかれたりなんかすると、こっちまでキュンとくる。
彼が人差し指で、ぐいぐい前を指さすから、「なに?」って首をかしげたら、声を出さずに口の動きだけで「前、前!」だって。
自分の前の列が空いていたことに気づいて慌てて前に詰めたら、それ見てまた笑ってる。
恥ずかしい。
でもなんかうれしい。
また目が合った。
あんなに遠くて別次元だった人が、私を見てくれている。
もうそれだけで十分な気がした。