あなたが居なくなった後 ~シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました~
 家の前で宏樹の車の後部座席から降りると、優香は開いたままのドアに向かって声を掛ける。車の振動が心地よかったのか、抱っこされたまま陽太は眠ってしまっていた。
 降りる際に、ご近所の奥様達がお隣の家の門の前で集まっているのが視界に入る。この辺りにはお喋り好きな小学生ママが固まっていて、石橋家の左隣に住む佐伯夫人はそのリーダー格だ。

「送ってくれて、ありがとう」
「じゃあ、明日もよろしく」

 陽太を抱っこして二人分の荷物を持っているせいで、ドアを閉めるのにもたついていると、宏樹がさっと運転席から出てくる。優香の代わりに後ろのドアを閉めてくれたのを、遠巻きからの視線が露骨に追ってきているのに気付く。
 さっと振り返ると、隣家前の奥様達が一斉にこちらの方を見て、怪訝な顔でヒソヒソ話を始めた。

「お隣って確か、こないだ旦那さんが亡くなったばかりよねぇ?」
「子供はまだ生まれたばかりでしょう? いくら独身になったとはいえ、ちょっと不謹慎じゃないかしら」

 口元を隠し、聞こえないよう言っているつもりかもしれないが、ほんの数メートルの距離では丸聞こえだ。興味本位と非難の色をした視線が、優香と宏樹に直撃する。
 優香自身はあまりご近所付き合いはしていなかったので、勝手な噂を流されてもあまり気にはならない。けれど、宏樹の方はそうとも限らない。噂が回りに回って顧客に伝わることだってあるかもしれないのだ。客商売なのだから、世間の評判は過剰なくらい気にした方がいい。

 否定しようと、優香が一歩前に出掛けようとした時、宏樹がそれよりも先に井戸端会議中のご近所さんの方へと近付いていく。

「こんにちは。兄の生前中は大変お世話になりました。姉と甥の二人では何かとご迷惑をお掛けすることもあるかと思いますが、今後ともよろしくお願いします」

 先ほどの彼女らの失礼極まりない会話なんて、聞こえていなかったかのように平然と挨拶を始める。そして、胸ポケットから名刺入れを出すと、それぞれに自分の名刺を差し出していく。

「えっと、確か佐伯さんのご主人は駅前で中古車屋さんをされてるとか?」
「え、ええ。そうです」
「ああ、やっぱり! 兄からも希少な車種を取り扱った良いお店だと聞いてたんで、ご挨拶に伺いたいなと思ってたんです。経営上のご相談があれば是非ご連絡をいただければと、ご主人様にお伝え下さい」
「は、はぁ……」

 勢いで受け取った名刺を見た一同は、宏樹の名刺に書かれた苗字を見て、自分達の誤解だとすぐに納得したようで黙り込んでしまう。「それでは失礼いたします」と隣家の前から戻ってきた宏樹は、何事もなかったかのように「じゃあね、陽太」と甥っ子の頬を指で突いてから、エンジンが掛かったままの車へと乗り込む。

 走り去っていく車を見送ってから、優香も自宅へと戻る。お隣の門前ではご近所さん達が気まずそうに苦笑いしている。再就職初日も、宏樹に助けられっぱなしだった。
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