あなたが居なくなった後 ~シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました~
 オフィスに戻って来てからずっとピリついてる宏樹とは反対に、寺田瑛梨奈はニコニコと笑顔を絶やさずご機嫌だった。

「前のオフィスに行ったら、ヒロは独立して出てったって言われて、ビックリしちゃった。あそこの事務員さん、相変わらず怖かったぁ。住所書いたメモをバンッて渡してくるの」
「……向こうにも行ったのか」
「でも凄いねー。自分のオフィスを持っちゃうなんて。あの頃は独立するとか全然言ってなかったのに」

 再び、宏樹は大きく溜め息を吐く。以前の勤務先にまでアポ無しで突撃した話を聞かされたら、嘆きたくもなるのは当然だ。事務スペースで昼休憩を取り始めた優香は、持参したお弁当を食べながら、パーテンションの向こうから聞こえてくる会話に苦笑していた。勿論、聞き耳を立てているつもりはなかったが、この距離では何もかもが丸聞こえなのだ。

「私、やっと分かったんだ。ヒロと一緒に居る時が、一番幸せだったんだなぁって。やっぱり私には、ヒロが必要なんだよ。だからね、やり直した方がいいと思うんだよ、私達」

 お願いとは違い、すでに決まったことのような物言いに、宏樹が苛立ってテーブルにカップを乱雑に置いた音が聞こえてくる。

「やり直すも何も、原因を作ったのは瑛梨奈の方だろう。俺から乗り換えたっていう研修医はどうした? 看護師との二股が発覚したとか、そんな感じかな?」
「失礼ね、二股なんて掛けられてないわよ。他に好きな人がいるとか言いながら、私と付き合うことにしたヒロと一緒にしないで」
「分かった上で、それでもいいって言ったのはそっちだろ? なのに――」
「だって、研修が終わってもそのまま病院に残って勤務医になると思ってたんだもん。まさか実家の診療所を継ぐ、なんて言い出すとは思わないじゃない……田舎の診療所なんて冗談じゃないわ。しかも、母親が看護師よ」

 ゴリゴリの家族経営の診療所。そんなところで受付なんてやりたくないと、瑛梨奈が好き放題言っている。話を聞いていると、彼女は医療事務として働いている病院の研修医と宏樹とを天秤にかけ、医者の彼の将来の方が有望だと判断したらしい。しかし、研修期間が過ぎた後は今の総合病院には残らず、父が開業している片田舎の診療所に戻ることにしたのが不満みたいだ。そしてそれを、とんだ見込み違いだったと批難している。
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