あなたが居なくなった後
「うちには、気が済むまで居てくれていいよ。二階の空いてる部屋にお布団用意しておくね。タオル類は洗面所の棚に入ってるから、勝手に使って。お風呂、入るでしょ?」

 「ごめんねー」と申し訳なさそうに言ってから、葵は持って来たスーツケースを開いて着替えなどを探し始める。急いで出て来たという割には、スーツケースの中には余裕で連泊できる量の荷物がぎっしりと詰め込まれているのが見えた。

 和室に敷いた布団の上に寝転んで、薄暗い中を優香は天井の壁紙を眺めていた。廊下の向こうからは葵がシャワーを浴びる音が聞こえてくる。

 大輝とは喧嘩らしい喧嘩はしたことが無かった。優香の機嫌が悪くなると、とりあえず何でも先に「ごめん、俺が悪い」と大輝がすぐに謝ってしまうからだ。本当に悪いと思ってない時でも、「優香と険悪になりたくないから、謝って済むなら」という理由で仲直りをしたがる。
 根っからの平和主義者で、もめ事を極端に嫌う夫。仏壇に手を合わせに来てくれた人の中からは、大輝が建築現場で職人達と言い合いになった話などを聞かされたけれど、仕事上とはいえ、それすら信じられないくらいに夫はとても穏やかな人だった。

 ――まともに夫婦喧嘩もできなかったなぁ……。

 もし、大輝が死ぬことが無かったら、夫婦としての生活が続いていく内に、大きな喧嘩をしてしまう可能性もあっただろう。子供の教育方針なんかで言い合うことがあったかもしれない。

 葵から聞かされる彼氏への愚痴ですら、羨ましいと感じてしまう。腹を立てる相手がいるのは何て幸せなことだろうと。

 翌朝、保育園の通園準備をしながら陽太へ朝ご飯を食べさせていると、玄関のチャイムが鳴り響いた。たまに宏樹が車で迎えに来てくれることはあるが、それにしては時間が早過ぎるなと思いつつ、玄関へと向かう。

「朝早くからすいません。葵がこちらにお邪魔してるって聞いたのですが……」

 葵から何度か写真を見せてもらったことがある顔が申し訳なさげに玄関の門扉前で立ち尽くしていた。夜勤明けでそのまま駆け付けて来たらしく、スーツにノーネクタイ姿。徹夜の後で朝日が眩しくて辛いのか、少し目をシバシバさせている。

「ああ、どうぞ入ってください――」
「もうっ、迎えには来なくていいって言ったでしょ!」

 出迎えた優香が門扉を開いていると、葵が玄関の中から男性に向かって言う。その声はかなり嬉しそうで弾んでいて、優香は一瞬で彼らが夜のうちに仲直りしたことを知った。

「いや、一緒に帰ろうと思って。葵が居ない家に一人で帰っても仕方ないし」
「ちょっと待ってて。すぐに用意するから」

 バタバタと急いで荷物を取りに戻る葵。その慌ただしい姿に、優香は小さく笑う。痴話げんかに巻き込まれるのはほどほどでお願いしたい。
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