あなたが居なくなった後
「顧客を回して貰う代わりに、しばらく新人を預かることになっちゃったんだよね。向こうの事務スタッフの育休と産休が重なって、面倒見れる人間がいないらしくて……何か、急なことで悪いんだけど」

 仕事の引継ぎは少し前に決まってはいたが、昨夕に後出しで追加条件を提示されてしまったのだという。事務所の独立時にもいくつかの案件を回して貰った恩もあり、断り切れなかったみたいだ。

「資格取得の勉強中らしいんだけど、優香ちゃんとは歳も近いし仲良くやってくれると助かるかな」

 言いながら、デスクのパソコンで先輩会計士から送られて来たメールの文面を確認して読み上げる。

 『吉沢汐里、25歳。大学卒業後に別の事務所でのアルバイト経験あり』

 育休中の向こうのスタッフが復帰するまでの二か月間だけ、こちらで事務補助として勤務してもらうことになった。宏樹の事務所はあくまでも研修先なので、給与の負担は無いという、考えようによってはとても美味しい条件だ。宏樹が前事務所と良好な関係を築いていて可愛がって貰っているのがよく分かる。

「今日は一旦、向こうへ出勤してから来るみたい。特に何を指導しとけって指示は無いから、適当にできることを手伝って貰う感じでいいとは思うよ」

 書類が増える一方の中、人数分の作業スペースを確保するのに、宏樹は朝から一人でバタバタしていたのだという。事務所内の様子から、しばらくはまた書類整理が中心になりそうだと、優香は頭の中で作業の優先順位付けをしていく。

「ま、来るのが女の子で良かったよ。男だったら心配で外回りも行けやしないしね。優香ちゃんを他の奴と二人きりにするなんて、気が狂いそうだ」

 買って来たプリンを冷蔵庫にしまい込む優香に、宏樹が揶揄うように笑って言ってくる。反射的に、優香の顔が熱を帯び始める。また赤くなっているのを見られてはマズイと、庫内から漂い出てくるひんやりとした冷気で火照った顔を必死で冷ました。

 向こうでの引継ぎが長引いたのか、その研修生は昼過ぎに事務所へとやって来た。電話中だった宏樹に代わって扉を開錠しに立った優香は、入り口前で『吉沢汐里』と記載された別事務所のネームプレートを首から下げている人物に、「あれ?」と目をぱちくりさせた。

「……男性、だったんですね?」
「はい。名前だけだと間違われることは多いですが」

 就活生と見間違ってしまいそうな、まだまだ気慣れてない感のあるスーツ姿。少し重めの前髪の下のノンフレーム眼鏡は、横長のレンズがかなり厚めだ。
 確認の為にと事務所内を振り返ってみると、デスクで通話中の宏樹が少し焦った顔をしてこちらの方を見ていた。
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