あなたが居なくなった後
「優香さん、ちょっといいですか?」

 吉沢が優香の名を呼ぶ度に、宏樹がぴくりと反応する。三人で簡単な自己紹介をした時に、「お二人とも石橋さんだと、苗字ではややこしいですよね?」と宏樹のことは所長。優香のことは下の名で呼ぶと吉沢が宣言した。優香達はずっと互いに下の名で呼び合っていたから、これまで気にしたこともなかったが、一緒に働くことになった者は確かに混乱するだろう。

 優香は下の名で呼ばれることに抵抗は無かったし、吉沢の提案はもっともだと受け入れる。宏樹も優香ちゃんと呼んでくるし、逆に改まって苗字で呼ばれた方がここでは違和感があるくらいだ。
 でも、この新人が義姉を気安く呼ぶことを、所長である宏樹は気に食わないようだった。そもそも女性だと思って快諾したつもりの研修生が男だった時点で想定外なのだ。とにかく面白くなさげな顔をするが、じゃあ他にどう呼べばと言われても困る。そんな彼の反応には、当の吉沢本人は気付いていないようだったが。

「ここの会社の一昨年の決算資料だけが抜けてるんですけど――」
「本当ですね。他の箱に紛れ込んでるかもしれないから、探しながら作業しましょう」

 動線を遮るように積み上げられた段ボールを片付けるのが第一だと、吉沢と手分けして荷物を開封していく。書類をドサッと乱雑に扱われるのは多少気になったが、優香の倍の束を軽々と持ち運んでくれるから、思った以上に早く整理することができそうだ。

 会計事務所での雑務には慣れているらしく、吉沢は無駄なお喋りもせずに黙々と作業をこなしていく。事務的な繰り返しの作業は苦にならないタイプなのだろう。変に気を使って会話を振ったりしなくてもいいのは、優香にとっても気楽で良かった。

「16時までには戻るつもりではいるけど、何かあれば携帯に連絡くれたらいいから」
「はい。行ってらっしゃい」
「保育園の迎えの時間に間に合いそうもなかったら、勝手に帰ってくれても――」
「うん、分かってる。早く出ないと、お客さんを待たせちゃうって」

 コンサルを請け負っている会社から視察の同行依頼を受けて外出するはずが、宏樹は心配そうにオフィス内を見回して、今日はなかなか出掛けようとしない。
 優香が初対面の男と二人きりになる状況を自分が作り出してしまうのかと、本気で悔しがっているようだった。けれど、優香に時間を促されて、渋々とオフィスを出ていく。顧客あっての会計事務所だ、遅刻する訳にはいかない。
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