あなたが居なくなった後
 普段と同じ時間にオフィスへと出勤してきた優香は、まず最初に簡易キッチンで電気ケトルへ水を入れることから始める。いつもそうしている内に、ほどなくして宏樹がやってくる。
 二人分のカップにインスタントの粉末を入れて、湧いたばかりのお湯を注げば、オフィス内にコーヒーの香りがふんわりと漂い始める。朝のコーヒーは始業の合図。特に好きな訳じゃないけど、一度は嗅が無いとどうも気合いが入りきらない。香ばしい匂いは子育てモードと仕事モードとの切り替えスイッチのようなものだ。

 しばらくの間、コーヒーカップ片手に宏樹と何とはなく雑談していると、入り口のインターフォンを鳴らして吉沢も出勤してくる。今日からは元のオフィスには顔を出さず、こちらへ直行してくることになっていた。

「おはようございます」

 カップを持ったまま立ち上がって開錠しに行った宏樹が、入り口前で少し驚いた表情を浮かべる。何だろうと首を伸ばして振り向いた優香も、「ん?」という顔になった。まだ昨日の今日だから、二人とも違和感は感じたものの吉沢の変化をすぐには見抜けない。人の記憶というものは意外とあてにならない。先に気付いたのは優香の方だった。

「あ、眼鏡が無い! 今日はコンタクトにしたんだ?」
「はい。普段はコンタクトなんですけど、昨日はストックが切れて取り寄せ中だったんで」
「ああ、こっちが通常なのか?」
「そうですね」

 分厚いレンズの眼鏡が無くなると、妙にあか抜けて見え別人のようだ。元々から童顔タイプなこともあり、真新しいスーツと相まって、ますます就活中の学生に見えてくる。

「コンタクトって割とすぐ買えるものじゃないのか?」
「一般的な度数ならそうみたいですけど、自分は視力悪すぎるんで、いつも取り寄せになるんです」

 そこまで悪いと眼鏡の方が楽なんじゃないかと思ったが、レンズに厚みが出る分いろいろと不便なのらしい。確かに昨日掛けていた眼鏡のレンズは相当ぶ厚くて重そうに見えた。ノンフレームタイプだったのは、あの厚みが収まるフレームが無いかららしい。
< 62 / 71 >

この作品をシェア

pagetop