あなたが居なくなった後
 優香の言葉に、宏樹はすっと視線を逸らした。自分の席へ戻りデスクの上にマグカップを置くと、その茶色の波紋を黙って見つめる。
 ほんの些細なことでも優香の中から大輝の存在が浮き上がってくる。亡くなった後も想われ続けている兄のことを羨ましく思うと同時に、憎らしくも感じる。どうあがいても越えられない壁を残して、大輝はこの世から去ってしまった。

「仲良くなる為に、もうちょっとプライベートな話を振ってみた方がいいかなぁ? 吉沢君、趣味とか何も無いって言ってたけど……」
「じゃあ、恋バナでもしてみたら?」

 まあ、優香を前にしてその手の話は嫌がるだろうけど、と思いながら宏樹はマグカップに口をつけた。冷め始めた珈琲は少し酸味を増している。
 「恋バナかぁ」と呟いた優香は、何かおかしなことを思い出したらしくクスクスと笑い始める。義姉の反応に、宏樹はハッとして慌てたように否定した。

「あ、余計なことは言わなくていいからね! どうせ向こうへ戻ったら、あること無いこと吹き込まれるんだろうし……」

 以前に突撃してきた元カノのことを宏樹も思い出したらしく、ハァっと大きな溜め息を吐いていた。瑛梨奈はこちらに来る前に、彼が独立前に勤めていたオフィスへも乗り込んで行ったらしく、元同僚達からは散々冷やかしを受けたみたいだ。

 「もう何年も前のことなんだから、勘弁してくれ」とウンザリ顔で電話を受けている姿を、優香も目撃した記憶がある。しばらくは前オフィスからの電話には、黙って首を横へ振り居留守を決め込んでいたくらいだ。

「もう余所見する気なんて、全然無いのに……」

 両肘をデスクに付いて頭を抱え、溜め息と共に吐き出された台詞は、宏樹自身も無意識だったんだろうか。言った後すぐ、ハッとした表情で顔を上げる。

「あ、ごめん。仕事中はそういうこと、言わないようにしてたんだけど」

 吉沢が来るようになってからは自粛していたつもりだったが、思わず漏れてしまった。焦って視線を向けた先で、優香が箸を持ったまま手を止めて、完全に俯いてしまっているのが目に入る。そのサイドの髪を無造作に引っ掛けた耳が、赤く染まっているのは宏樹のデスクからもよく確認できた。

「ごめんね」

 反応して貰えた嬉しさがこみ上げ、少しばかり笑い声の混じってしまった謝罪の言葉に、優香は誤魔化すように黙って首を横に振って返すのが精一杯だった。
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