あなたが居なくなった後
 後部座席でスマホを手に取り、優香はアドレス帳から義母の番号を検索する。小刻みに震える指先が思うように動かない。鼓動があまりにも煩過ぎて、スピーカーの声が聞こえ辛い。義母は嫁から息子の悲報を知らされるのはこれで二度目になる。どうして、また同じことを繰り返さなくちゃいけないのか……。

「救急で運ばれて来た、石橋宏樹の家の者です」

 救急病院の受付で名乗ると、集中治療室とかではなく通常病棟へと案内された。もう一通りの治療は済んだということなのだろうか。ナースステーション前にある個室の廊下には事故現場から付き添ってくれたという、年配の男性の姿があった。

「石橋のオフィスの者です」
「ああ、良かった。事務所の方と連絡が取れたんですね。河口です」
「はい。河口様の事務所からお電話いただいて……」

 商談後にビル前で見送るつもりでいた顧客の目前で、宏樹の事故は起こったのだという。混み合った車道を避けようと歩道に乗り上げて走っていたオートバイが、ビルのエントランスを出たばかりの宏樹に衝突した。

「救急車の中では気丈に話しをしておられたんですが、今は家族以外は面会謝絶らしくて私はここで待つしか無くて」
「そうですか……」

 河口へ付き添いの礼を言ってから、優香は向かいのナースステーションへと声を掛ける。面会が出来ないほどに宏樹の容態は悪いのだろうか。

 看護師へ義姉だと申告すると、優香はすぐに病室の中へ入ることを許された。入り口のスライドドアが完全に閉まっても、廊下から聞こえてくる足音や話し声。日中の病院は意外と騒々しい。そのざわつく空間の中、宏樹は白いシーツが掛けられた布団の上でとても静かに眠っていた。衝突時に頭を打ったらしく、頭部には包帯が巻かれ、布団に投げだされた右腕には点滴の管が繋がっている。

 全く同じ光景を、優香は以前にも目にしたことがある。個室のベッドで横たわり、いつまでも目を覚まさない夫、大輝。どんなに話しかけても、彼が答えを返してくれることはなかった。その目を開いて優香へと微笑んでくれることは二度と無かった。
 また、同じ思いをしなきゃいけないんだろうか……。

「ずっと傍に居るって言ったくせに……」

 ベッド脇に膝をつき、点滴と繋がる右腕にすがる。まだ温かいこの腕も、いずれは冷たく冷え切ってしまうのだろうか。どうして傍に居て欲しい人は、いつも自分の前からいなくなってしまうんだろうか。

「大丈夫。俺はそんな簡単には死なないよ」

 優香が握っていた手を力強く握り返される。はっと顔を上げると、宏樹が苦笑しているのが目に入った。笑いを堪えたような表情で、愛おしそうに優香のことを見ている。

「俺が結構しつこいタイプなの、優香ちゃんが一番よく知ってるでしょ?」

 身体を少し動かして、反対の手を優香の頬へと伸ばしてくる。いつの間に流れていたのか、涙でびしょ濡れになっていた頬を優しく拭っていく。

「俺でもいいって、少しは思ってくれるようになった?」
「私より先に死なないって約束してくれる?」

 優香の返事に、宏樹は少しだけ考える素振りをする。

「んー……確約はできないけど、努力はする。ほら、男女の平均寿命の差とかあるし、そもそも優香ちゃんの方が俺よりも若いからね」

 少し意地の悪い返しをすると、「でも」と付け加える。

「傍に居ていいって言ってくれるんなら、喜んでずっと居るよ。陽太が大きくなっても、優香ちゃんがお婆ちゃんになっても、ずっと一緒に居る」

 だから泣かないで、と頬を優しく撫でてくる手を、優香もそっと触れる。今、自分が一番欲しいと思っているのは、この温かくて優しい手だ。この手と一緒なら、きっとこれからも大丈夫。
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