あなたが居なくなった後
宏樹が営む会計事務所は真新しいビルの3階にあった。駅のロータリーを抜けて通りを二つ越えた、中小のオフィスばかりが入る5階建てのビル。優香の自宅からは4駅しか離れていないが、ビルが乱立するオフィス街という雰囲気のエリアだ。改札を出ていく人の流れの速さに、働くこと自体が久しぶりの身では気後れしてしまいそうになる。
派手な格好じゃなければいいから、と義弟からは言われていたが、さすがに出勤初日だからとキレイ目のブラウスとパンツにジャケットを羽織ってみた。ヒールのある靴は久しぶり過ぎで怖くて、ローヒールのパンプスを選んだ。最初から頑張り過ぎたら疲れてしまうのは分かってるから、程よく力を抜いた格好。
ビルの下で『石橋会計事務所』のプレートを確認してから、階段を使って3階に向かう。同じ階には別のオフィスが他に三社入っているらしく、会計事務所の前で手櫛で髪を直していたら、怪訝な顔でチラ見されてしまった。
「いらっしゃい」
入り口ドアのインターフォンを押すと、細い黒フレームの眼鏡を掛けた宏樹が笑顔で出迎えてくれる。スーツのジャケットを脱いでベストにネクタイを締めた義弟の姿は、百戦錬磨のやり手の経営コンサルタントという雰囲気を醸し出していた。普段の穏やかな宏樹しか知らないから、少しギャップを感じる。そう言えば、仕事中に会うのは初めてかもしれない。
「眼、悪かったんだ?」
視力に自信ありの大輝と同じ感覚で、弟の宏樹も眼は良いと勝手に思い込んでいた。普段はコンタクトだったのかな、と驚いていると、宏樹は笑いながら首を横に振って否定する。
「全然。うちの家系、視力だけはいいから。今、PCで伝票入力してて、これはブルーライトカット専用。優香ちゃんも眼が疲れやすかったら、用意しておくといいかもね」
へーと感心しながら、優香はオフィスの中を見渡した。簡易キッチン付きの20畳ほどのワンルームを、商談コーナーと事務スペースとにパーテーションで仕切られている。事務スペースの壁面の棚には色分けされたファイルが並び、床には段ボールが天井近くまで積み上げられ、向かい合って設置された2台のデスクの上にも、書類がいまにも雪崩そうなくらい重ねて置かれている。正直言って、かなりごちゃついていた。
「ひどいもんだろ? 前の事務所から持って来た書類も整理してる暇も無くてさ……まずはそういうのをお願いしたいんだけど」
開業してから誰も雇ってこなかったから、雑務中の雑務まで手が回せなかったのだと照れたように笑う。
「了解。まずは何から始めればいい?」
「そこの段ボールの中身を顧客別にファイルし直して、棚に並べてって欲しい。新しいファイルはその段ボールの山のどっかに入ってるはずなんだけど……」
首を傾げながら、宏樹は積み上げられている箱の中を覗き込んでいく。まずは中身を確認して貰ってからだね、と言いながら、さりげなく上の箱を下ろして優香が探しやすいようにしてくれていた。
山積みになっていた荷物を開封し、所定の場所へ整理していく。とにかくその作業が全て終わらないことには、フロアの掃除すらままならない状態。
「ごめんね、初日から肉体労働みたいなのばかりで」
「あれ、あと二日はかかりそうだね……」
紙の帳簿も束になればかなりの重量だ。分厚いファイルを上げ下げしているだけで、両腕はパンパンに疲れてしまった。間違いなく、明日か明後日には筋肉痛が待っている。
「大輝なら、良い筋トレになるって喜んでるとこだね」
「あー、兄貴は筋肉バカだったからなぁ」
事あるごとに「筋肉は裏切らない」と言い続けていた夫のことを思い出して笑いかけたかと思ったが、優香はふっと表情を無くした。こうして何かある度に話題にしても、夫はもう二度と帰ってはこないのだ。楽しかった思い出も全て虚しさに引きずられてしまう。
そんな義姉の様子に、宏樹は椅子に掛けていた自分のジャケットを手に取り、デスクの下に置きっぱなしのビジネスバッグを抱えた。
「俺も今日は上がるから、車で送ってくよ。そのまま保育園に迎えに行くんだよね?」
「……うん」
夫と死別してからまだ半年も経っていないのだ、明るく振舞ってはいるが優香が現実を受け入れ切るには時間が足りない。優香が無理して笑えば笑うほど、傍で見ている人間はその痛々しさで苦しくなる。
派手な格好じゃなければいいから、と義弟からは言われていたが、さすがに出勤初日だからとキレイ目のブラウスとパンツにジャケットを羽織ってみた。ヒールのある靴は久しぶり過ぎで怖くて、ローヒールのパンプスを選んだ。最初から頑張り過ぎたら疲れてしまうのは分かってるから、程よく力を抜いた格好。
ビルの下で『石橋会計事務所』のプレートを確認してから、階段を使って3階に向かう。同じ階には別のオフィスが他に三社入っているらしく、会計事務所の前で手櫛で髪を直していたら、怪訝な顔でチラ見されてしまった。
「いらっしゃい」
入り口ドアのインターフォンを押すと、細い黒フレームの眼鏡を掛けた宏樹が笑顔で出迎えてくれる。スーツのジャケットを脱いでベストにネクタイを締めた義弟の姿は、百戦錬磨のやり手の経営コンサルタントという雰囲気を醸し出していた。普段の穏やかな宏樹しか知らないから、少しギャップを感じる。そう言えば、仕事中に会うのは初めてかもしれない。
「眼、悪かったんだ?」
視力に自信ありの大輝と同じ感覚で、弟の宏樹も眼は良いと勝手に思い込んでいた。普段はコンタクトだったのかな、と驚いていると、宏樹は笑いながら首を横に振って否定する。
「全然。うちの家系、視力だけはいいから。今、PCで伝票入力してて、これはブルーライトカット専用。優香ちゃんも眼が疲れやすかったら、用意しておくといいかもね」
へーと感心しながら、優香はオフィスの中を見渡した。簡易キッチン付きの20畳ほどのワンルームを、商談コーナーと事務スペースとにパーテーションで仕切られている。事務スペースの壁面の棚には色分けされたファイルが並び、床には段ボールが天井近くまで積み上げられ、向かい合って設置された2台のデスクの上にも、書類がいまにも雪崩そうなくらい重ねて置かれている。正直言って、かなりごちゃついていた。
「ひどいもんだろ? 前の事務所から持って来た書類も整理してる暇も無くてさ……まずはそういうのをお願いしたいんだけど」
開業してから誰も雇ってこなかったから、雑務中の雑務まで手が回せなかったのだと照れたように笑う。
「了解。まずは何から始めればいい?」
「そこの段ボールの中身を顧客別にファイルし直して、棚に並べてって欲しい。新しいファイルはその段ボールの山のどっかに入ってるはずなんだけど……」
首を傾げながら、宏樹は積み上げられている箱の中を覗き込んでいく。まずは中身を確認して貰ってからだね、と言いながら、さりげなく上の箱を下ろして優香が探しやすいようにしてくれていた。
山積みになっていた荷物を開封し、所定の場所へ整理していく。とにかくその作業が全て終わらないことには、フロアの掃除すらままならない状態。
「ごめんね、初日から肉体労働みたいなのばかりで」
「あれ、あと二日はかかりそうだね……」
紙の帳簿も束になればかなりの重量だ。分厚いファイルを上げ下げしているだけで、両腕はパンパンに疲れてしまった。間違いなく、明日か明後日には筋肉痛が待っている。
「大輝なら、良い筋トレになるって喜んでるとこだね」
「あー、兄貴は筋肉バカだったからなぁ」
事あるごとに「筋肉は裏切らない」と言い続けていた夫のことを思い出して笑いかけたかと思ったが、優香はふっと表情を無くした。こうして何かある度に話題にしても、夫はもう二度と帰ってはこないのだ。楽しかった思い出も全て虚しさに引きずられてしまう。
そんな義姉の様子に、宏樹は椅子に掛けていた自分のジャケットを手に取り、デスクの下に置きっぱなしのビジネスバッグを抱えた。
「俺も今日は上がるから、車で送ってくよ。そのまま保育園に迎えに行くんだよね?」
「……うん」
夫と死別してからまだ半年も経っていないのだ、明るく振舞ってはいるが優香が現実を受け入れ切るには時間が足りない。優香が無理して笑えば笑うほど、傍で見ている人間はその痛々しさで苦しくなる。