扉を壊して、閉じ込めて
 氷雨に拾われてひと月が経った。
 その間、アリスは何度か扉をくぐろうとしては失敗し、また体力をごっそりと奪われて眠りに落ちるのを繰り返していた。
 これまで何の問題もなく扉をくぐることが出来たのに、今では開くことはおろか近付くことも儘ならない。よくよく考えてみれば、次の世界を表す扉の装飾さえ判別が叶わなくなっていることに気付いたアリスは、いよいよ自らの力が失われつつあることを自覚し始めた。

「……春風」

 氷雨の言葉を小さく反芻し、アリスは初めて過去の世界をじっくりと振り返る。
 確かに、どの世界でもアリスに追い縋る人はいた。
 天変地異に見舞われ、空が真っ黒な雲に覆われてしまった世界や、おぞましい異形の襲来によって草木が枯れ果ててしまった世界などは、特に顕著だったように思う。

『どうか、どうかこの世界に留まってくださいませんか』
『望むものは何でも差し上げますから、アリス様。どうか』
『アリス様』
『アリス』
『アリス!』

 人々の声がぐるぐると響く。
 もう彼らの顔も名前も思い出せないのに、その声だけはずっとアリスの頭の中に残っていた。
 そしてそれは、扉をくぐる前から既に聞こえてくるのだ。
 閉ざされた扉から、ずっと。
 アリス、アリス、こっちへ来てくれと。

「……」

 アリスは故郷へ帰りたい。
 なのに、いつの間にか彼らの声に導かれてしまっている。彼らの望む方へ引き寄せられているような気がした。
 そうしているうちに故郷からどんどん遠ざかっていくことに気付いていたから、いつもいつも焦っていた。
 開けても開けても見知らぬ世界に辿り着き、落胆し、また終わりの見えない旅を続けて。

「…………」

 日が沈んだ。
 黒々とした夜空の真ん中、白い月が昇る。

「アリス。……また泣いているね」

 いつの間にか隣に座っていた氷雨が、アリスの肩を引き寄せた。頬を伝う涙は、彼がいくら拭っても止まる兆しがない。

「困ったな。何も悲しむことなんて無いのに。ほら、おいで」

 アリスの軽い体を横抱きにすると、氷雨は彼女の涙を唇で優しく吸い取る。小さくしゃくり上げていたアリスがびくりと肩を揺らせば、震えを押さえ込むように抱く力を強め、こわばった手を包み込んだ。

「君の長い旅は忘れてしまいなさい。……君を振り回し続けた、あの忌々しい扉のことも。それか──」

 氷雨はそこで、ぱたりとアリスの体を寝具に押し倒す。
 月明かりが長い白髪に遮られ、真紅の瞳だけがアリスの視界で淡く光っていた。

「僕のことだけ考えられるようにしようか」

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