あなたを忘れて生きていた
 その夜、フィリアは自宅の椅子に座って、ぼんやりと考えていた。

(それにしても……)

 アデルバート、いや、アルベルトのことを思い出すことが出来ない。彼だけではなく、自分をとりまく環境やら何やらがごっそり脳内から抜け落ちている。

 彼に言った通り、長く移動をしていた。荷馬車の幌の隅っこで、ただ座って日々揺られていた。旅の商人の馬車で、このアンブロス子爵領に来る「ついで」に拾ったフィリアを乗せてくれただけの、それ以外何の関係もない人々。彼らと出会う前に自分は何をしていたんだっけ……そうやって記憶を掘っていくと、ノイズが入って来る。

 ぐちゃぐちゃとした黒い線のような何かが邪魔をして、思い出すことが出来ない。それは、初めてのことではない。彼女が過去に何度も何度も思い描いて試したが、結局まったくその糸がほどけないまま彼女は諦めた。

 けれども。

(あの人は、大事な話をしていない気がする。だって、どうしてわたしが1人で移動をしていたのかとか……どうしてその村を出たのか……そういうことを尋ねない。尋ねないということは……)

 それを、彼は知っているのだ。知っていて口を閉ざしている。

(もしかしたらわたし……)

 それを「知りたくなくて」「思い出したくなくて」忘れているのだろうか。考えることが怖い。今までは、何も困らなかったから、あえて思い出そうとはしなかった。何故なら、思い出そうとすれば、頭の中が痛くなってくるからだ。

 けれども。過去を知る人がそこにいる。それに、何より。

――そんな言葉遣いではなかった――

 そう言って自分を見る彼の瞳。少し悲しそうで、けれども、どこか嬉しそうで。感情はよくわからない。けれど、そこに籠る熱はフィリアにも感じ取れた。彼は間違いなく自分を熱っぽく見つめている。
< 6 / 24 >

この作品をシェア

pagetop