あなたを忘れて生きていた
――君は、わたしの婚約者だからだよ――

 それはきっと嘘だ。だって、婚約者のことを自分は忘れてしまったということではないか。そんな情に薄い人間だなんて……。

(いいえ、わたしは情に薄いのかもしれないわ。だって、昔のことを思いださないようにとしているぐらいですもの……きっと、嫌なことがあって、忘れたかったんだわ。たとえば、家族に捨てられたとか……たとえば、1人で生活をしていたのに、村の人たちに追い出されたとか……)

 だけど。

 あれほど熱っぽい瞳で自分を見るアルベルトのことを思い出せない。そのことで、胸の奥がちりちりと痛む。

「うう」

 フィリアはぶるりと身震いをした。どうやら夜は少し冷えているようだ。

「ちょっと、お茶を飲んで温まろう……」

 そう言って、彼女は厨房に行くと、火打ち石と火打ち金、それから藁を使って火をつけた。少しずつ藁に広がるオレンジ色の炎。じわじわと広がる様子を見て、薪をそこに足す。

「……」

 フィリアは一瞬、ぐらり、と体が傾いた。それから、はっとなって

「眠い、のかしら。危ないわね……」

 と言いながら、大きくなった火に水が入った鍋をかけた。それから、湯が沸くまでの間、暗がりの中で煌々と光る炎をじいっと見つめるフィリア。

「……嫌……」

 ぽつりとつぶやいてから、はっとなる。

「ああ、今、何を呟いていたんだろう、わたし……」

 時々こうなる。それをフィリアもわかっていた。火を使う時は気を付けなければいけないのに、それが大きくなると一瞬そこに自分が吸い込まれそうな錯覚に陥る。普段料理をする時は気が張っているのでそこまではならないが、夜は良くない。気が緩んだ時に、ふわっと炎に誘われてしまう。フィリアは、ぱん、ぱん、と軽く自分の頬を両手で叩いた。

「……そういえば」

 時々、人に聞かれていた。どうしてそんなにお茶を入れるのが上手なのか、と。それを聞かれても、いつもフィリアは困った表情で「なんとなく入れているだけなんですけど、どうしてでしょうね」と答えていた。

 だが。一体自分は、誰にそれを教えてもらっていたんだろう。それを考えても、彼女の頭がズキズキと痛みが発生する。それは、母親にでも教えてもらったのだろうか。だったら、どうして自分は母親のことを忘れてしまっているのか……。

(きっと、嫌なことがあって。嫌な相手に教えてもらったのかもしれない……)

 忘れよう。思い出さないようにしよう。そう考えながら彼女は炎を見つめ、もう一度ぶるりと体を震わせた。
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