執愛音感~そのメロディは溺愛不可避~
モノクロの絨毯から、一音。
あらゆる色に成りうる可能性を纏った透明な音色が、無音の産声を上げる。
ここからどんな旋律が生まれるだろう。
華やかなファンファーレ? それとも静謐な夜想曲?
はたまた息もつかせぬような、激しい愛の──
柏木響子は、かぶりを振って鍵盤から指を離した。残響が低い天井の木目に弾けて消えていく。
「響子ちゃん、どう?」
「澄んでいて芯のある音。きちんと調律して頂けて良かったね」
「そうなのよ。さあスコーンが焼けたわ。召し上がれ」
「ありがとう、休みの日なのにごめんね」
「いいのいいの、調律日は不定期だから……」
手を振ってカウンターに戻る叔母の静江を見送り、響子は鍵盤にフェルトのカバーを乗せてから蓋を閉めると、案内された席に着いた。
長年看護師として勤めていた静江が一念発起して開いた喫茶店、「かなで」。
近所の人達にとって憩いの場でありたいというコンセプトに基づいて、土日はピアニストを招いて音楽喫茶と洒落込んでいる。
生憎、響子が訪れた今日はピアノの調律に伴う臨時休業日だったが、静江は「他ならぬ響子ちゃんだから」と特別に招いてくれた。
手入れされた庭木と華美になりすぎない程度の花々が、門から建物へと続く数メートルを彩っている。
窓硝子越しに降り注ぐ陽光は、カウンターの奥にある食器棚に並んだティーカップを優しく浮かび上がらせる。
静江のセンスで選び抜かれた品やインテリアは、日常を少しだけ心ときめかせる非日常へと連れ出してくれた。
木目のあたたかな風合いの客席に、丁寧に磨かれた食器。
指にしっとり馴染む白磁のティーカップで紅茶を頂くと、連日の仕事で張っていた気がゆるゆるとほどけていくようだ。
「どう?」
洗い物をしながら悪戯っぽく尋ねてきた静江に、響子はスコーンにジャムを塗りながら「そうだなあ……」とわざと気を持たせるように語尾を濁す。
「開店初日を98点とするなら200点」
「あら! お客様、紅茶のおかわり、お持ちしましょうか」
よそ行きの声でかしこまられ、「今、ひと口目なんですけど」と返せば「それもそうね」とあっけらかんと突き放される。
天真爛漫な静江と話していると、振り回されているうちにリラックスしていることに気づくのはいつものことだ。
「叔母さ……しぃちゃんのお菓子はいつも美味しいから、安心してよ」
おばさん、と呼ばれるのを嫌う静江は、この響きを聞くや否や視線で威嚇してくる。
響子にはその反応も含めてアトラクションのようなものだ。礼儀として首だけ竦めれば、しぃちゃんと呼びなさい、とあだ名まで指定してくる静江はころりと機嫌を直した。
「今日はピアノの調律日で休みだから、ひと休みしたら響子ちゃん弾いてみる?」
「え……でも、これはプロの方が弾くものでしょ。私はお金を頂けるような演奏はできないよ」
「何言ってるの。響子ちゃんだって素人じゃないでしょうに」
「いや、バリバリの素人ですけど」
確かに響子は楽譜も読めないような音楽音痴ではない。
響子の自宅にあるアップライトピアノには、学生時代の響子の汗と涙が染み込んでいる。
しかし、10年前、最後に出たコンクールのほろ苦い結果と共に蓋をしたきりであった。
「ともかく、今日は休業日なんだからお金云々は言いっこなし。響子ちゃんが真摯に音楽と向き合ってきたのは、私だってよーく知ってるから」
静江の言葉に心から頷けない自分がもどかしくもあったが、それでも響子は目を伏せてスコーンを食べ始める。
そうしなければ、どうにもピアノにばかり目がいってしまいそうだったからだ。
ジャムの甘酸っぱい香りが口いっぱいに広がって、モノクロの幻影を振り払う。
静江にはこの視線もバレているのだろうな、と思った。
あらゆる色に成りうる可能性を纏った透明な音色が、無音の産声を上げる。
ここからどんな旋律が生まれるだろう。
華やかなファンファーレ? それとも静謐な夜想曲?
はたまた息もつかせぬような、激しい愛の──
柏木響子は、かぶりを振って鍵盤から指を離した。残響が低い天井の木目に弾けて消えていく。
「響子ちゃん、どう?」
「澄んでいて芯のある音。きちんと調律して頂けて良かったね」
「そうなのよ。さあスコーンが焼けたわ。召し上がれ」
「ありがとう、休みの日なのにごめんね」
「いいのいいの、調律日は不定期だから……」
手を振ってカウンターに戻る叔母の静江を見送り、響子は鍵盤にフェルトのカバーを乗せてから蓋を閉めると、案内された席に着いた。
長年看護師として勤めていた静江が一念発起して開いた喫茶店、「かなで」。
近所の人達にとって憩いの場でありたいというコンセプトに基づいて、土日はピアニストを招いて音楽喫茶と洒落込んでいる。
生憎、響子が訪れた今日はピアノの調律に伴う臨時休業日だったが、静江は「他ならぬ響子ちゃんだから」と特別に招いてくれた。
手入れされた庭木と華美になりすぎない程度の花々が、門から建物へと続く数メートルを彩っている。
窓硝子越しに降り注ぐ陽光は、カウンターの奥にある食器棚に並んだティーカップを優しく浮かび上がらせる。
静江のセンスで選び抜かれた品やインテリアは、日常を少しだけ心ときめかせる非日常へと連れ出してくれた。
木目のあたたかな風合いの客席に、丁寧に磨かれた食器。
指にしっとり馴染む白磁のティーカップで紅茶を頂くと、連日の仕事で張っていた気がゆるゆるとほどけていくようだ。
「どう?」
洗い物をしながら悪戯っぽく尋ねてきた静江に、響子はスコーンにジャムを塗りながら「そうだなあ……」とわざと気を持たせるように語尾を濁す。
「開店初日を98点とするなら200点」
「あら! お客様、紅茶のおかわり、お持ちしましょうか」
よそ行きの声でかしこまられ、「今、ひと口目なんですけど」と返せば「それもそうね」とあっけらかんと突き放される。
天真爛漫な静江と話していると、振り回されているうちにリラックスしていることに気づくのはいつものことだ。
「叔母さ……しぃちゃんのお菓子はいつも美味しいから、安心してよ」
おばさん、と呼ばれるのを嫌う静江は、この響きを聞くや否や視線で威嚇してくる。
響子にはその反応も含めてアトラクションのようなものだ。礼儀として首だけ竦めれば、しぃちゃんと呼びなさい、とあだ名まで指定してくる静江はころりと機嫌を直した。
「今日はピアノの調律日で休みだから、ひと休みしたら響子ちゃん弾いてみる?」
「え……でも、これはプロの方が弾くものでしょ。私はお金を頂けるような演奏はできないよ」
「何言ってるの。響子ちゃんだって素人じゃないでしょうに」
「いや、バリバリの素人ですけど」
確かに響子は楽譜も読めないような音楽音痴ではない。
響子の自宅にあるアップライトピアノには、学生時代の響子の汗と涙が染み込んでいる。
しかし、10年前、最後に出たコンクールのほろ苦い結果と共に蓋をしたきりであった。
「ともかく、今日は休業日なんだからお金云々は言いっこなし。響子ちゃんが真摯に音楽と向き合ってきたのは、私だってよーく知ってるから」
静江の言葉に心から頷けない自分がもどかしくもあったが、それでも響子は目を伏せてスコーンを食べ始める。
そうしなければ、どうにもピアノにばかり目がいってしまいそうだったからだ。
ジャムの甘酸っぱい香りが口いっぱいに広がって、モノクロの幻影を振り払う。
静江にはこの視線もバレているのだろうな、と思った。
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