執愛音感~そのメロディは溺愛不可避~
あれから電話を終えて店内に戻ってきた静江に別れを告げて、響子は店を出た。
土産に持たされたパウンドケーキの入ったバスケットがほんのり温かい。
生垣の葉が、夕暮れ時に差し掛かったオレンジ色をほのかに帯びてはにかんでいる。
背の低い木製の門にかけた手が熱い。
指先がじんじんと痺れてかすかに震えていた。
久しぶりに旋律を生み出したことに、足元がふわふわと覚束無い。
静江の店ならともかく、帰路でこんなに浮き足立っていては、危なっかしいことこの上ない。

響子は一度立ち止まると、道路の端で大きく深呼吸をした。
肺を満たす高揚が少しずつ冷めていく。いつもの自分が戻っていくようで視界がクリアになっていく。
しかし先程のフレーズはまだ止むことを知らずに耳の奥に残り続けている。
そんなにも有頂天になってしまったかと自戒し、かぶりを振ってもう一度息を吸うと──

違う。
これは現実の音だ。

──……♪♪───♪………

鼻歌が聞こえる。
つい追うように足を進める。
店がある通りの裏側には遊歩道があった。
そのベンチに腰掛けて文庫本を読んでいた男性が、ふっと響子に顔を向けた。

よく日に焼けた褐色の肌に、ふわりと柔らかいくせっ毛が踊る。
色素の薄い髪の色と通った鼻筋は日本人離れしていて目を引く。
不躾だとわかっていながらも響子が目を離せずにいると、彼は瞳を一瞬だけ見開いて、すうと瞼を下ろした。

「Bravo!」

突然の賞賛と共に拍手を贈られて、大袈裟なほどに響子の肩が跳ねた。それに気づいているのかいないのか、男は文庫本をジャケットのポケットに突っ込むと、しなやかに立ち上がった。
舞台俳優のような、洗練された身のこなしに目を奪われる。

「挨拶にしては窒息しそうなメロディでしたね」

かつん、かつん、と靴音が正確なリズムを刻んで響子に近づく。

「ようやく、また、貴方の音色に会えました」

響子の目の前に立った男は、長身を折り曲げるように身をかがめる。ミルクティー色の瞳が優しく細められるのを目の当たりにして、響子は言葉を失った。
バスケットを握りしめる手がひと回り大きな手に包まれる。触れるというより覆うような手つきだ。触れ合う寸前の肌からじんわりと伝わるしっとりとした体温に、鼓動が早鐘を打つ。
己を見上げる響子を見つめ、ほころぶ口元が歌うように言葉を紡ぐ。

「響子さん、俺を溺れさせてくれますか」

底の知れない、柔らかいテノール。
少し鼻にかかった甘い声音。
それは問いかけの形をとっていたものの、響子の答えが音に乗ることはなかった。

吸い込まれるように寄せられた唇が、ぴたりと重なる。
上唇をちゅうと啄まれ、ぽってりした下唇をすり合わされ、かすかに揺れる男の前髪が響子の額を淡くくすぐる。
声になりきらない吐息めいた音が鼻を鳴らす低音に、胃の奥がカッと熱くなった。

「──っ!」

咄嗟に振り上げようとした手は包まれていて動かせない。
それでもなお、振り払おうとした手首をやんわりと握られた。

「……だめですよ。大事なものでしょう」

今にも再び重なりそうな唇の距離の中、赤ん坊をあやすように諭されて混乱しきりの響子だが、手首に伝わるバスケットの重みに、静江が持たせてくれたパウンドケーキのことを思い出して、ほんの少しだけ冷静になった。
それを感じとったのか、男はそっと響子を解放する。

「ん、いい子です。おや、甘い匂いがしますね」
「や、やだっ……来ないで!」

やっと拒絶を言葉にしたものの、浅い呼吸では声になりきれず、逃げようにも膝が笑って力が入らない。
すると、男は跪くように身を落とすと、響子の膝裏を掬うように抱き上げた。
落下した直後に急上昇する視界に焦点が定まらない。パニックになる響子を安心させるように微笑んだ男は、そのまま数歩進んで自分が座っていたベンチに響子を下ろした。

「すみません、少し浮かれすぎました」

隣には座らず、その代わりに響子が握りしめていたバスケットを音を立てずにそっと置く。自分は二、三歩距離を置いて両手を上げた。降参のポーズだ。

「貴方を怖がらせたいわけじゃない」

眉を八の字にした男は胸ポケットから名刺入れを取り出すと、一枚の裏側にさらさらと何かをしたためている。
響子はそれを凝視する。まだ足に力が入らない分、眉間をぎゅっと狭くして男の一挙手一投足を注意深く見つめていた。

「どうしました。どこか痛みますか?」

視線は名刺に置いたまま、世間話でも振られたようなトーンで話しかけてきた男に戸惑いを隠せないまま、響子は小さく首を横に振る。

「それは良かった」

こんなにも睨みつけているというのに、男にとってはさしたる問題ではないらしい。寧ろ、響子に視線を貰えていることが嬉しいと言わんばかりに頬が緩んでいる。少女漫画なら背景に花が咲いているところだ。

名刺入れをしまった男は、一枚をぴんと立てた人差し指と中指の間に挟むと、響子の座るベンチの端にそっと滑らせた。少しでも風が吹けば飛んでしまいそうだ。

「響子さんにとってこの上なく怪しい者である自覚はありますが、一応訂正させて頂くと俺は怪しい者ではありません」

真顔で宣言されてどう反応していいか困る。
そんな響子の表情にそうでしょうと言わんばかりに男は大きく頷いた。

「俺は高階柾樹(たかしなまさき)といいます。俺が何者かは、そこに置いた名刺を見てみればわかりますよ」

視線を名刺に移していいか迷う響子は、高階柾樹と名乗った男を見つめ続ける。
風で柔らかな前髪が彼の目元を覆う。それをうっとおしげに掻き上げる手の甲が広く感じられて、何故かはわからずとも目が離せない。

「響子さんに見つめられるのはすごく光栄ですけど、このままじゃドライアイになりそうで心配だ。今日はここで失礼します」

胸に手を添えた、カーテンコールのようなお辞儀。いささかキザな仕草だが、妙に似合っていた。

「近いうちにまたお会いしましょう。その時はこんな無様な真似はしませんのでご安心を」

それ、美味しく召し上がってくださいね、とバスケットを指さされ、静江のことを思い出した響子は咄嗟にバスケットに視線を移してしまった。
その間に男は背を向けて歩いていく。
あっけにとられた響子は、遠ざかる背中を眉間に力を入れるのを忘れて見送っていた。

「なんなのアレ……っていうか私の名前、知ってた……?」
< 3 / 15 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop