執愛音感~そのメロディは溺愛不可避~
「ふ、不覚……」
「柏木ちゃんにしたら珍しいよなァ。こんなケアレスミスするガラじゃないでしょ」
翌日の定時間際。
響子はモニタを睨みつけながら呻いていた。
丸まった背中をからかうように、先輩の上野がキャスターを転がしながら寄ってくる。背もたれを前にして行儀悪く座っている彼は、デスクに置かれている資料を一枚つまみ上げて表を眺めると「うわ、やーらかしたなァ」と妙な節をつけてもう一度呟いた。
「言われなくてもわかってますよ…………あ」
定時を告げるアナウンスが流れる。今日はノー残業デーではないのでオフィスの照明は落とされないし、画面に注意喚起のポップアップも表示されない。
嗚呼楽しい残業キャンペーンですねえと棒読みで呟いた響子は、別画面で勤怠表を立ち上げると赤く縁取られた残業マークをクリックした。
「よっ、柏木響子、残業確定! おめでとうございます! 社畜の鏡!」
「うるっさいです。先輩はどうぞお帰りください」
エアクラッカーを鳴らして煽る上野をしっしっと追いやり、修正作業に取り掛かった。
彼の言う通り、普段の響子からすると珍しいを通り越してありえない部類に入るミスだった。
確実に昨日の出来事が尾を引いている。
そんなことは百も承知だ。
しかし、ミスをしたのは紛れもない自分なのだから、後始末はつけねばなるまい──そんな武士のような決意で怒濤の修正作業に励む響子の周りを、同部署のメンバーは抜き足差し足忍び足で帰っていくのだった。
カタカタと無言でキーボードを叩く響子の周りを、キャスターが滑る音と共にうろつきながら上野はひっきりなしに喋り続ける。
「俺、今月ワンコインランチ縛りしてるの。節約はできるけど、この時間になるともうダメ。充電切れた」
「…………」
「女の子と話するのに便利だから定期的にネコ動画漁ってるんだけど、俺そんな猫好きじゃないんだよねー、柏木ちゃんは猫派? 犬派?」
「…………」
「柏木ちゃん、怖いってよく言われない?」
「…………」
ミスタッチ。キーボードを打つリズムが乱れた。お構い無しに上野は口を動かし続ける。
「真面目なのはいいけどさあ、ピリピリしてるのも損だぜ」
「…………あの、先輩。お喋りしたいなら他を」
「ま、そーいう息の詰まりそうなのが傍から見てるとイイってのもあるな。崩しがいがあるっつーの?」
「!」
遂に響子の指が止まった。
──挨拶にしては窒息しそうなメロディでしたね。
耳の奥で甘いテノールが蘇る。
それと同時に、ミルクが溶けだしそうな温度の瞳がすうと細められた瞬間と、前髪が頬を掠めた感触、それにパウンドケーキの甘い香りまでもが一気に想起されて頬が熱くなる。
無意識に、指が唇をなぞっていた。
「おーい? 柏木ちゃん? ごめん、言い過ぎた?」
ガラゴロと椅子を移動させた上野が隣から響子を覗き込む。薄く開いたその唇を見て、男は心の中で舌なめずりをした。
「柏木ちゃんにしたら珍しいよなァ。こんなケアレスミスするガラじゃないでしょ」
翌日の定時間際。
響子はモニタを睨みつけながら呻いていた。
丸まった背中をからかうように、先輩の上野がキャスターを転がしながら寄ってくる。背もたれを前にして行儀悪く座っている彼は、デスクに置かれている資料を一枚つまみ上げて表を眺めると「うわ、やーらかしたなァ」と妙な節をつけてもう一度呟いた。
「言われなくてもわかってますよ…………あ」
定時を告げるアナウンスが流れる。今日はノー残業デーではないのでオフィスの照明は落とされないし、画面に注意喚起のポップアップも表示されない。
嗚呼楽しい残業キャンペーンですねえと棒読みで呟いた響子は、別画面で勤怠表を立ち上げると赤く縁取られた残業マークをクリックした。
「よっ、柏木響子、残業確定! おめでとうございます! 社畜の鏡!」
「うるっさいです。先輩はどうぞお帰りください」
エアクラッカーを鳴らして煽る上野をしっしっと追いやり、修正作業に取り掛かった。
彼の言う通り、普段の響子からすると珍しいを通り越してありえない部類に入るミスだった。
確実に昨日の出来事が尾を引いている。
そんなことは百も承知だ。
しかし、ミスをしたのは紛れもない自分なのだから、後始末はつけねばなるまい──そんな武士のような決意で怒濤の修正作業に励む響子の周りを、同部署のメンバーは抜き足差し足忍び足で帰っていくのだった。
カタカタと無言でキーボードを叩く響子の周りを、キャスターが滑る音と共にうろつきながら上野はひっきりなしに喋り続ける。
「俺、今月ワンコインランチ縛りしてるの。節約はできるけど、この時間になるともうダメ。充電切れた」
「…………」
「女の子と話するのに便利だから定期的にネコ動画漁ってるんだけど、俺そんな猫好きじゃないんだよねー、柏木ちゃんは猫派? 犬派?」
「…………」
「柏木ちゃん、怖いってよく言われない?」
「…………」
ミスタッチ。キーボードを打つリズムが乱れた。お構い無しに上野は口を動かし続ける。
「真面目なのはいいけどさあ、ピリピリしてるのも損だぜ」
「…………あの、先輩。お喋りしたいなら他を」
「ま、そーいう息の詰まりそうなのが傍から見てるとイイってのもあるな。崩しがいがあるっつーの?」
「!」
遂に響子の指が止まった。
──挨拶にしては窒息しそうなメロディでしたね。
耳の奥で甘いテノールが蘇る。
それと同時に、ミルクが溶けだしそうな温度の瞳がすうと細められた瞬間と、前髪が頬を掠めた感触、それにパウンドケーキの甘い香りまでもが一気に想起されて頬が熱くなる。
無意識に、指が唇をなぞっていた。
「おーい? 柏木ちゃん? ごめん、言い過ぎた?」
ガラゴロと椅子を移動させた上野が隣から響子を覗き込む。薄く開いたその唇を見て、男は心の中で舌なめずりをした。