執愛音感~そのメロディは溺愛不可避~
「おつかれ〜! 意外と早かったな。さすが柏木ちゃん。そして俺」
「あの、先輩。本当に何しに居たんですか」
「えーと、応援?」
「妨害の間違いでは」

修正を完了させたファイルを共有フォルダに入れて、勤怠表にやっと退勤を打刻できる。
帰り支度を済ませた響子の後ろから無責任な拍手喝采を送る上野は、どかどかと大股でオフィスを出たかと思いきや、一足先にエレベーターホールで待っていた。カチカチと呼び出しボタンを押して、やってきたエレベーターに乗り込む。
早足で追いかけてきた響子が続くと閉ボタンを押した。

「な、腹減ったからメシ行こ」
「おひとりでどうぞ」
「待っててあげた俺へのお礼ってことで、な? 何が食いたい?」
「あの、だからおひとりでお好きなものを」
「俺? たまには柏木ちゃんに付き合って洒落たもん食べるのもいいかもなあ……あ、それとも肉いく? クーポンあるからさ、気にしなくていいぞ〜」

話が通じない。
会話が成り立たない相手のペースに巻き込まれてしまってはコトだ。業務時間内なら誰かの目もあるが、今となってはそれは難しい。
困惑を思い切り顔に出して拒絶するものの、遂に地上に着いたエレベーターが開くと、上野は当然のように手を握ってきた。
慌てて振り払い、競歩並の早足でエントランスへ向かう。

「そんなに腹減ってんのかー?」
「違います。私はひとりで帰りますお疲れ様でした」

一気に言い放って自動ドアの向こうに飛び込むと──

「響子さん! お疲れ様でした」

高階柾樹が立っていた。

勢いをつけて進めた足が止まれない。
つんのめって痛いほどの角度でも踏みとどまれなかった響子の肩を受け止めたのは──柾樹だった。

「な、んで」

これはあらゆる意味を込めての「なんで」だ。

何故ここに居るのか。
何故また会うのか。
何故この出会いを当然のように受け入れているのか。

「またお会いしましょうと約束したじゃないですか」

はにかんでそう答えた柾樹は、二の句が継げない響子の肩を抱いたまま、視線を彼女から遠くに外す。

「お知り合いですか」

そう問われて、自分が何故こんなにも焦っていたかを思い出した響子は、背後の足音を耳にして頬を引き攣らせた。
これでは前門の虎後門の狼である。

「おーい、待て待て。柏木ちゃん、結構足速いのな……っと、どちらさま?」

追いついた上野の声が、訝しげなよそ行きの声に変わる。トーンダウンしたそれにどう答えれば良いか考えを巡らせる前に、柾樹は響子を背に庇うように、ぐるりと立ち位置を反転させた。広い背中が壁のようだ。

「知人です。響子さんと約束しておりまして」
「はあ? ……ホント?」

斜めに傾いだ上野が、柾樹の後ろにいる響子を窺うように覗き込む。
柾樹は背が高い。初対面でかがみ込まれた時も身長差を感じたが、こうして背に庇われると響子の目線ではジャケットの背中しか見えなくなってしまう。
響子はそこからひょこりと顔を出すようにして、反射的に無言でこくりと頷いた。それをきっかけに、ようやく頭が回り出す。

素性の知れない相手に話を合わせるだなんて、些か軽率過ぎたのでは?

しかし後悔しても、もう遅い。
自分を納得させるために、頭の中の天秤が知人と他人とのトラブル、どちらが厄介か判定を始める。
職場で今日のようにいちいち絡まれるのは勘弁だ、と本音が重く主張した。

「そ、そうなんです。今日、彼と約束していて……残業になったから無理かなって思ったけど、待っててくれて」
「ちょうど俺も帰り際に打ち合わせが入ったから、気にする事はないですよ。タイミングが合って良かった」

振り返りつつ、響子のその場しのぎに話を合わせる柾樹の話術に真顔で舌を巻いた。
デートの約束をしていた恋人同士の会話だと錯覚しそうになる。

「貴方もお仕事お疲れ様でした。それでは失礼します」

そつなく愛想良く上野に会釈をして、柾樹は響子の背中に手を添え歩き出す。
流れるようなエスコートにたじろぎつつ、響子も「お疲れ様でした」と一礼して流れに乗った。
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