後宮の精霊姫~雪の日、少女は王子に連れ去られた~

8 灯り

 産み落とした子を見る前に意識を失って、ロゼは懐かしい光景の一部になっていた。
 ロゼは故郷の小川のほとりで、くすぐったいような甘い花の香りに囲まれていた。陽光の下でドレスをひらめかせて回りながら歌を歌う。古い時代から伝わる有翼人種の悲劇を、まだ幼い心では理解できないまま。
 雪の降る夜に生まれた子は、瑠璃の精に連れていかれた。歌い終えると、ロゼは花畑でそれを聞いていた少年の横にぴょこりと座る。
 にいさまたちは、私をどこへもやらないって言うの。でも私、外に行ってみたいな。それで、にいさまたちにお土産話をたくさん聞かせてあげるの。
 父から聞かされた縁談も、まだこの頃は小旅行のように思っていた。そんなロゼの無知な言葉に、少年だったジュストは困ったように首を傾けた。
 従兄の兄様たちが好きなんだね。優しい言葉に、ロゼは弾けるように笑い返した。
 ……大好き! 何の迷いもなくそう言えたあの頃が、ロゼに鈍い痛みを伝えてくる。
 日は落ちて夜になり、少年の姿も見えなくなった。代わりに、あの瑠璃色の瞳をした妖獣がそこに坐していた。
 哀しそうにロゼをみつめるその目は、見覚えがあった。かつてロゼが従兄たちの子を流産した夜、彼はロゼの帳にやって来た。
 儚く去った赤子は、生まれる前に精霊に愛されてしまった子だといわれていた。家中の扉を閉ざし、誰にも知られずに産み落としたとしても、精霊の愛からは逃れられない。ロゼはその美しい獣がやって来たとき、彼が赤子を連れ去ったのだと思った。
 出て行って。既に体温を失った子を背に隠して、ロゼは獣に刃を突き付けながら泣いた。
 生きのびようとする意欲などなかった。けれど赤子を連れ去った彼にだけは食べられたくない。その意地だけで立っていたロゼを組み伏せる程度、妖獣にはたやすかったに違いない。
 けれどその妖獣は今のように哀しげにロゼをみつめて、足をひきずるようにして出て行った。後には涙のような、黒曜石のしずくが点々と落ちていた。
 ロゼはひととき妖獣をみつめて、そうだったのだと気づく。
「……ジュスト様だったのですか」
 雪のような白い花が、ちらちらと降って来る。辺りを真っ白に染めるが、少しも寒くはない。光の粒のような花をまといながら、妖獣は姿を変えた。
 黒曜石のしずくが滴る髪は耳にかかる長さの黒髪に、大地の色の肌には青年の精悍さが宿る。そして瞳と同じ色の翼が、その背に広がった。
 ジュストはロゼに歩み寄って告げる。
「やっと気づいてくれた」
 ロゼの頬を涙がつたう。そっと抱かれて、ロゼはずっと自分を包んでいた存在に気づいた。
 花冠を乗せてくれた少年の優しさが、ある日ふわりとロゼの中に息づいた。それから彼を思うたび、灯りのような幸せがこみあげた。従兄たちに暴力を振るわれ、子も翼も失って地に落ちたあのときでさえ、ロゼはジュストを思い出して命をつないだ。
 行こうと、ジュストはロゼを誘う。どこへとも告げなかったが、ロゼはうなずいた。
「牢の中であなたとめぐりあって、巣穴であなたに囚われた」
 ジュストの頬に手を当てて、ロゼは泣きながら笑う。
「あなたの側なら、きっとどこでも愛おしい場所になるでしょう。……連れていってください」
 ジュストはロゼを引き寄せて、ロゼ、とその名を呼ぶ。
 唇を合わせて呼吸を分け合いながら、二人はまた体をからませていった。








 開け放った窓から、潮の香りが便りのように届く。
 ジュストは正式に王位継承権を放棄し、騎士として新たな領地を与えられることが決まった。ジュストが丘から海が見える屋敷にロゼを連れて越してきて、そろそろ一月になる。
 屋敷や使用人の管理、他の有翼人種との交流、ロゼには初めて勉強することばかりだが、ジュストが一つずつ教えると約束してくれた。一時は出産で命も危うかった体をよく休めてほしいと言われて、ロゼはジュストに世話を焼かれながら快方に向かっていた。
 夜、ロゼが寝台に横たわってうつらうつらとしていたとき、不思議な光景が見えた。ロゼの寝台の隣、いつでも様子が見られるようにとジュストが用意してくれた赤子のゆりかごを、二人の有翼人種の男女がのぞきこんでいる。
 にいさま、ちいさいジュストがいるよ。あどけない言葉遣いで、女性は笑う。彼女より一回りほど年上の男性は、そうだねとうなずいて懐かしそうに目を細める。
 ロゼは肖像画で女性の姿を見たことがあった。五歳ほどの精神年齢で止まっているという、王の妹姫だった。どこかへ行かないようにというように、男性は彼女の手を決して離そうとしなかった。
 そして男性の姿はそれ以上にあちこちの肖像画で見た覚えがあった。瑠璃の瞳を持つ、けれど褐色の肌を持つジュストとは違って、冬から生まれたように白い肌をした怜悧な男性だった。
 陛下とロゼは口にしようとしたが、夢の中にいるように感覚が鈍く、起き上がることができなかった。王はロゼをみとめると柔らかくほほえんで、内緒話をするようにそっと告げる。
 秘密で来ているんだよ。勝手に他の有翼人種の伴侶の部屋に入ったなどと知られたら、決闘になってしまうからね。
 王と妹姫はゆりかごの中をのぞき込んでは、二人で笑い合う。その二人の合間に満ちている空気に、ロゼはほほえんだ。王はこの上なく妹姫をいたわっているのが透けて見えて、そして妹姫はそんな兄王に無心の安息を預けているようだった。
 ……噂は真実ではなかったのだ。王は妹姫に暴力を振るってはいない。妹姫がかつての自分のように絶望の中で子を宿したわけではないとわかって、ロゼは心から安堵した。
 君は優しい子のようだね。そんなロゼのまなざしを見て、王は言った。
 ジュストは妹が恋した男精の子なんだ。妹は長い間記憶を持つことができないから、精霊界に還った恋人を忘れてしまっただけ。
 ロゼが哀しそうに眉を寄せると、王は歌うように問う。
 一つも傷つかない恋などあるだろうか。瑕のない愛などあるだろうか。それより私は、大切な存在が笑っているのが何よりの幸いだ。
 いつか会いに来てほしい。新しく家族になった君を、待っている。王はそう告げて、妹姫とともにまるで霧のように消えてしまった。
「ロゼ、そろそろ冷えてきた」
 隣室からジュストが入って来て、夜気から守るように窓を閉める。
 ロゼは少しの間、今しがたの不思議な邂逅を想った。振り向いて首を傾げたジュストをみつめて、言葉に迷う。
 どうしたの。ジュストはロゼの隣に体を横たえて、ロゼをのぞきこみながら問う。
 ロゼはジュストの頬を手で包み込んで笑う。
「私は幸せでいると、いつか陛下にご報告させてください」
 愛しています。ロゼがまだ慣れない言葉を恥ずかしそうに告げると、ジュストはロゼの髪に口づけを落として応えた。
「幸せだよ。私も」
 優しい鼓動と体温に包まれて、ロゼは今夜も眠りに落ちていった。
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