もし彼がここにいたら、僕を連れていってくれるのに。
あの後は、何も起こらなかった。

でも、忘れられない。
あの、甘い味と感覚が、ふとした時に甦ってくる。

何で、あんなことをしたんだろう

それを、いつも考えていた。

あの物語は添削されて帰ってきたが、特に何もなくて
誤字脱字の注意が入っただけだった。
まぁ、先生側だってこれは酷いと思っても、
あなたの作品ははちゃめちゃですので、一から書き直してくださいだなんて
言わないものだ。

カフェへ行く。バイトだから。
いつも、バイト中は現れないのに、
たまに帰る時間に居たりする。

遠くにいるから気づかなくてもおかしくないのに、
いつも手を振ってくれる。
自分は、目立たない方だという自覚があるから、
何で気づくんだろう、不思議だ。

時刻は20時を過ぎていた。
真っ白のホーム画面が、通話画面に切り替わった。

清滝

彼の苗字だった。
それは、連絡先を繋いだ後で分かったことで、
なんで苗字だけなのか聞くと、
「小夜が、苗字しか教えてくれなかったから」
と言われた。

通話ボタンに、スライドする。
『ごめん、今。大丈夫だった?時間。』
「え、大丈夫ですけど…
 何かあったんですか?」
『別に、何もないけど。』
「え、じゃあ何で電話したんですか…」
『何かないと電話しちゃいけないわけ?』
清滝さんの声は、聞いていて落ち着く。
『ただ、声が聞きたかっただけなんだけど、なぁ』
「朝いつも会ってるじゃないですか」
『…』
『朝しか会えないじゃん?』
「いったい、何が言いたいんですか…?」

今、どこにいるんだろう。
騒ぎ声や、大きな物音が聞こえてくる。
夜なのにそんなに騒がしい場所って…

『あのさ、お願いがあるんだけど、良い?』
「別に良いですけど…何も力になれない気がします」
いったい、何を頼みたいのだろう?
自分にできることなんて、ほぼないに等しい。
役立たずに頼み事をするなんて、と自虐的に思っていたら、彼は全く予想外のことを言った。

『家、来てくんない?』
「…はぁ?」

まさかの誘いに、間抜けな声が出てしまう。
そばにある壁に、寄りかかった。

『時間あったらで、良いから。』
『嫌だったら、ごめん』
「…別に良いですけど、何でですか?」
理由が知りたかった。
彼は自分と違って知り合いも多そうなのに、なぜ自分を選んだのか。

『別に?来て欲しかったから、それだけ。
 嫌だったら断ってよ、曖昧にしないで?』
「いや、行きます。びっくりした、だけなんで…
 いついけば良いですか?」

5分ほど話して、電話を終えた。
冷たい風が、鼻を掠める。
さっきまでは冷たかった指先も、
心なしか暖かく感じた。
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