数年振りに再会した幼馴染のお兄ちゃんが、お兄ちゃんじゃなくなった日
その瞬間までは、本当にただの友達だった。もっというと、兄。だから、電車の中で彼が呟いた「お前は可愛いんだから」という言葉も、私にとってはさっきの乗り換え駅で慌ただしく走りながら「日暮里の読み方って、"ひぐれざと"じゃないんだね。恥ずっ」なんて交わした会話と同じような、何気ないものだった。
***
「おう久しぶり!俺の妹よ。うわぁ、伊織もついに社会人か。都会で生きていく術なら俺になんでも聞けよ」
「わー、さわ兄!こっちで会うなんて変な感じだね!ほんとここまで来てくれてありがとう」
今日は瀬奈お姉ちゃんの赤ちゃんお披露目会。会社と一人暮らしのアパートを結ぶ路線以外はほとんど使わない私が、瀬奈お姉ちゃんのために初めて東京を飛び出して大移動をする記念すべき日。幼馴染の、さわ兄と一緒に。
私たちは昔から度々この3人で遊んでいたが、ついにメンバーの一人の元に新たな命が誕生したのだ。大人になったなぁとしみじみ思う。
私はといえばこの春、二年制の専門学校を卒業して、九州から就職で上京した。最年少だから、一番最後だ。慣れない大都会での生活に戸惑うばかりの日々。そんな中一足先に関東で暮らしていた瀬奈お姉ちゃんの所に生まれた赤ちゃんを見に行こうという話になり、新築の家まで向かっている。
未だに乗り換えが苦手な私を心配した古い友人がわざわざ私の住む最寄り駅まで迎えに来てくれた。電車すら通っていない山奥で育ったのだ、改札の通り方だってまだ分からないと思われているのだろう。自分だってもう3年も東京にいるにも関わらず、まだ少し喋り方に地元のイントネーションが残っているというのに。
こうして、田舎者たちの春の旅は始まったのだが……。
「あれぇ?あ、これ違う"ひぐれざと"だわ。俺たちが乗るやつじゃない」
「もう!さわ兄も乗り換え全然出来ないじゃん!」
頼りになるんだかならないんだか、私以上に混乱して駅をうろつくさわ兄に呆れて、私は結局自力で乗るべき電車を調べ上げ、彼の手を引いて飛び乗った。走っている途中で聞こえた、「にっぽり、にっぽり」というアナウンスに2人して顔を赤くさせながら。
「ふぅ。俺がいて良かっただろ」
ガラガラの電車の座席に、さわ兄はほっとしたように足を伸ばして腰掛けた。
「全然。むしろ間違えるところだったよ」
私もその隣に座り、ため息をつく。もしあれに乗ってしまっていたら完全に迷子だった、と想像して震え出す両手をこすり合わせるが、静かに走る電車に心地良く揺られるにつれて落ち着きを取り戻した。
「あいつももう母ちゃんになったのか。信じられん。俺、瀬奈にはいつも殴られてたからなぁ。旦那に一言、気をつけろって言ってやろうかな」
さわ兄はぶつくさと文句を言うが、その足元には出産祝いを忍ばせた紙袋が置いてある。
「あはは、でも瀬奈お姉ちゃん、昔から可愛かったもんね」
目的地までは、30分程度だろう。私たちは移りゆく景色を車窓越しに眺めながら思い出話に花を咲かせる。
近所に住んでいた10歳上の瀬奈お姉ちゃんと、5歳上の爽太お兄ちゃん。"そうた"と読むけど、使う漢字が"爽やか"だから、さわ兄。
私は二人にたくさん遊んでもらった。瀬奈お姉ちゃんはあっという間に大学を卒業して離れ離れになってしまったけど、さわ兄とは多少長く同じ時間を過ごした。赤ちゃんの頃から面倒を見てもらっていたらしい。物心つく前から一緒だから、もう家族みたいなものだ。よくボールをぶつけ合った3人組は、携帯を持ち出すと今度は画面越しにじゃれ合うようになった。こうして大人になっても会いに行ける距離に暮らし、仲良くいられる事は素敵だと思う。
「お前は本当に瀬奈の事大好きだよな。姉妹みたいだ」
そう。私は瀬奈お姉ちゃんが大好き。男勝りではつらつとしていて、芯のある美女。さわ兄の前ではいつも瀬奈お姉ちゃんばかり褒めた。でも、さわ兄の事も正直かっこいいと思っている。
私が高校生の時に帰省してきた以来、数年振りに会った彼は、大人の男性になっていた。サッカー部だったさわ兄の肌は未だに日に焼けていて、鍛え上げられた体はたくましく、いかにも元スポーツマンといった風貌だ。きっとスパイクを履けば、今すぐにだってあの頃のエースストライカーに戻れるだろう。一度だけ応援に行った試合で活躍する彼は自慢したい程に輝きに満ちていた。さらにその体力を生かし、現在は宅配のお兄さんをやっている。毎日重い荷物を運ぶのだろう、薄手のシャツの上からでも引き締まった体というのが分かる。顔も良く、きりっと整った眉は男らしい。笑うと真っ白な歯が光り、色黒の肌に映える。
名前の通り、爽やかなさわ兄。部活で忙しいはずなのに、私の家にちょくちょく顔を出したり、修学旅行に行けばお土産を買ってくれた。今日だって、自分も苦手なくせに私を心配して遠くから迎えに来てくれた。普段は言わないけど、昔からなにかと私に優しかったさわ兄の事も、もちろん大好きだ。
だけどこの気持ちはあくまで、兄弟愛のようなもの。彼に初めて彼女が出来たと聞いた時は、全力で冷やかした。恋愛の話といえばそれぐらいで、本当の兄だと錯覚するくらいに、私たちの間に男女の空気は存在しなかった。その証拠に私にも常に好きな人がいた。自分の同じ学年に素敵な人がたくさんいるのに、わざわざ彼に気持ちを傾ける暇なんてない程、私は私で自分の恋愛に忙しかった。今でさえ、さわ兄と会話する最中、この隣に座る人があの人だったら良かったのに……なんて失礼すぎる妄想を繰り広げては携帯をこっそりと眺めていた。
「あ、そういえば、さわ兄は結婚しないの?高校の時の可愛い彼女とはうまくいってる?」
ふと彼女の存在を思い出し、画面から目を離す。そろそろさわ兄の良い話を聞いてもいい頃じゃない?
「あかりちゃんの事?はぁ。とっくに別れたよ!」
さわ兄は背もたれに寄りかかっていた体を起こし、膝の上に腕を乗せた。
「えぇー!?何で?お似合いだったのに。あ、さわ兄浮気したな?」
嘘。さわ兄は誠実で優しい人だと分かっていてからかう。
「するかっ!向こうが心変わりしたんだよ。俺のこと、子どもっぽいんだってさ」
「あぁ……なるほどね。分かる分かる……」
私は大きく頷いた。仕事でちょっとでも褒められるとすぐにメールで自慢してくるもんね。
「え!?俺子供っぽいの!?頼れる人生の先輩だろ!?」
「一見そう見えて中身はいつまでも小学生のままだもん。元カノさん言ってなかった?私はあなたのお母さんじゃないって」
「お前なぁ……!!」
ケタケタ笑う私にさわ兄は、反撃だとばかりに私の肩に手を回し、自分の方へ引き寄せて片方の手で頬をぎゅむっと挟んで揺らした。ちょっと。ガラガラとは言え車両端っこの方には他のお客さんも乗ってるし、今日はきちんとお化粧してるんだから、昔のノリで触るな!そういう所だぞ、と言いたくなるのをこらえて仕方なく大人しくする私に、ふんと鼻を鳴らして離れるさわ兄。でも、ほっとしたのもつかの間、今度はチラチラと見ていた携帯を奪われる。
「あっ、ダメ!」
「さっきから見えてんだよ!お前こそ、これ誰とメールしてるんだ!?彼氏か!?」
「まだ違う!まだ、っていうか……片思いっていうか……」
最悪だ。返事が来ないかずっとソワソワ画面を見ていたのがバレていた。待ちきれず何度もセンター問い合わせをしてしまっていた事が。もしかすると電車の中だから電波が悪いのかも、という淡い期待は、「新着メールはありません」という冷たい文字に先程から何度もあっけなく壊されている。
会社の懇親会で出会った営業部の田嶋さん。顔面はもちろん地元では見た事ないオシャレなツーブロックの髪型と、スーツの似合うシュッとした体型。東京に来て初めて出会ったイケメンに一瞬にして心臓を撃ち抜かれた。勇気を出してメアドを聞き、数日前からやり取りをしている真っ只中なのだ。ただし、ものの数分で返信してしまう私に対して、田嶋さんからの返事は時間が空いたりすぐだったりと、気まぐれなものだった。
「へぇ……伊織が恋ねぇ。どんなやつだよ?」
「……この人……」
そう言って、私はしぶしぶ写真のお気に入りフォルダからその一枚を見つけ、画面に表示して携帯を渡した。鼻筋の通った田嶋さんの素敵な横顔……を、隠し撮りした写真。
「はははは」
「何で笑うの」
「伊織って面食いなんだな。でもこの鼻とか俺に似てない?」
「似てないよっ!田嶋さんの方が百倍かっこいい!それに田嶋さんはかっこいいだけじゃなくて、仕事も出来る超凄い先輩って聞いたよ!?誰かさんと違って乗り換えだってスマートに出来ると思うっ」
恥ずかしさから、ついさわ兄の失態を引き合いに出してしまう。
「なんだよ、俺だってやる時はやるんだぞ……お、おい!返事来たぞ!!お前田嶋の登録名にハートつけてんじゃねぇよ」
「うそっ!?ねぇ、やだちょっと、見ないで!」
興奮と焦りで思わず大きな声を出してしまうが、電車の中だという事を思い出して手で口を押さえる。さわ兄はメールを勝手に開く振りをして私を大いに怒らせた後、携帯をポンと返した。
「俺にも見せてよ」
「嫌に決まってるじゃん」
さわ兄には絶対見られないように、手で彼の前に壁を作ってガードした。やった、やったぁ、田嶋さんからだ!!私今朝、何て送ったっけ?深呼吸して、「♡田嶋さん♡」からのメールを開く。
しかし、自分が数時間前に送ったメールを思い出すまでもなく、その本文は私を奈落の底に突き落とすには十分な内容だった。
「……………」
「伊織。なんて……?」
「…………『いいですね。今度彼女と行ってみます』だって」
ああ、思い出した。あそこの高台から見える景色が綺麗らしいですよ、って、送ったんだっけ。「じゃあ、一緒に行ってみますか?」なんて返事を期待して。
「…………はっはっは。失恋おめでとう」
「……もう、はっきり言わないでよ……さっきの仕返し?」
私、今から幸せの絶頂にいる人に会いに行くんだよね。うまく笑えるかな。こんなの、牽制じゃん。そうだよね。あんなにかっこいい人、彼女がいないわけないもん。目の前の携帯の画面が滲んでいく。
世界でひとりぼっちになってしまったような気がしていた時、力強く肩を抱かれた。
「落ち込むなよ。誰だっけ?田なんとか。出会いなんぞ早い者勝ちだからなぁ、伊織と先に出会えなかったそいつの方が気の毒だ!」
今度はわしゃわしゃと頭をかき混ぜられる。だからさ、髪の毛もセットしてきたんだってば。だけど今はなぜか、その雑さが妙にありがたい。
「ほんと?さわにぃ……」
泣きそうな顔で、携帯の画面を消す。まぁ、内緒にされて遊ばれるよりかは、いいか……そう言い聞かせるが、ダメージは大きい。
「そうだよ。お前は可愛いんだから。それも一番」
「うん……ありがとう。じゃあ、またいい人探す……」
そうだ、めげずに次だよ。さわ兄もそう言ってくれる事だし。ほら、いたじゃん。総務部にもインテリ系のイケメンが。
………………………………ん?
彼の言葉に違和感を覚えた時、目的の駅を告げた電車のドアが開いた。
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